心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

運とは?

片目で世界を見ると二次元で見ている事になる。

すなわち、紙に書かれた世界。

でも、あなたは奥行きや、立体と認識している。

何故なら、脳の経験が生み出しているから。

目が見ているモノ全てが、見ている事にはならない。

脳の中に送られた情報を処理して初めて見た事になるから。

だまし絵も、脳に蓄えられた経験が無ければ、成立しない。

夜中に電柱が幽霊に見えてしまうのも、幽霊の存在を学習してきたからに過ぎない。

気配は、敵から身を守る為の脳の能力であり、人間や動物の顔をそこに見出すことで、危険や食糧確保に結びついている。

第六感もそのような事を指すのだろう。

見ている事が本当かどうかは、解らないのだ。

 

私達人間が見ている世界は本当の世界とは限らない。

それは、捕食の危険や食物の様子、人の顔色を見る為の進化で色が見える範囲が決まっているだけで、

赤外線や紫外線は見る事は出来ない。

しかし昆虫は遥かに人間の目で見える色より広範囲で見る事が出来る。

また他の動物達は夜行性や捕食の為に色数が少なく違った世界を見ているのだ。

昆虫の持つ複眼(沢山の目の集合体)で見る世界は、きっと驚くべき世界かもしれない。

このように見方を変えて見ると解る事だが、私達が信じて疑わないこの世界も、真実ではあるが事実では無いのかもしれない。

人は同じように先入観で見てしまう。

経験や知識、人からの伝聞で色付けされた眼鏡越しに。

本当の事、事実の裏にはいくつもの真実があり、見方によっては事実そのものが歪んでしまう事もある。

例えば、老夫婦がいたとする。ある日「夫が奥さんを殺してしまった」これは事実だ。

動機は介護疲れと妻の懇願による殺人だとする。

「長年付き添った妻を殺すなんてひどい話だ」これは真実だ。

「仲の良い夫婦で、よっぽど辛かった上での事、情状酌量しても良い」これも真実だ。

「例え懇願の上だとしても、誰かに相談すべきで罪は罪」

「もう若くはないから、執行猶予でも良い」等など、事実に対し見る側の背景や道徳観が、真実をいくつも作りだし、受け取る側が注意していないと、「ひどい夫だ」「可哀そうな旦那さんだ」という私的観念で変わっていき、更に伝聞され事実よりも真実に重きを置く事になる。

 

運と不運を考えて見よう。

運については数々の名言があるが、それは名声を得た人達の言葉である。

単純に考えるなら運が良かった人達の事だ。

だから現実に誰にでも当てはまるという事では無い。

例えば学校での先生との出会いで考えると、先生が大好きになる子供と顔も見たくない子供がいるとする。

前者は運があり、後者は不運だと普通は考える。

しかし物事はそんな単純ではない。

大好きな先生を見習い、先生を目指すものの挫折してしまう事もあるし、不運と思っていた子供が、反面教師で素晴らしい先生になる事もある。

 

「運(うん)」とは、その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す言葉として認識されているが、物事が起きその後の経過や結果で「運」「不運」が語られる事が多い。

「この子は生まれながらに運が強い」や「アイツは運を持っている」等、進行形で語られる事もあるが、結局は結果を見ての判断によるものである。

また期待する意味で「777のナンバーの車を見た」とか「虹を見た」……からもその後に起きた良い事と結び付けているだけで、「777」や「虹」が「運」を運んで来たわけでは無い。

ことわざでも「果報は寝て待て」「棚から牡丹餅」「渡りに船」「犬も歩けば棒に当たる」「大吉は凶に還る」等、様々あるがそのほとんどが 戒めの意味である事の方が多い

「生まれつき運が悪い」とか「アイツには運が無かった」という事もあるが、何をもって運不運を決めているかは、本人とはまったく関係の無い事だ。

冒頭の事実と真実と同じで、起きている事と捉え方は人によって変わるモノであり、運を引き寄せる方法や運を良くする……等、世間で取りざたされている事はただの気持ちの問題に過ぎない。

運が良くなる方法が本当にあるならば、紛争や戦争で苦しんでいる人達に教えてあげて欲しい。

 

自ら「運が悪い」と思えばそうだし、「運がいい事が起きる」と信じれば、それなりの関連付けの様な事が起きた時、納得するだけである。

毎日のように交通事故で無くなる人がいると思えば、癌の宣告をされる人もいる。

それは単に「運」が無かったとは言いきれない。

私が尊敬しているジャーナリストでノンフィクション作家の「知の巨人」とも呼ばれていた「立花 隆(たちばな たかし)」氏は、前妻が末期がんで亡くなり、自らも膀胱がんを患っていたが、彼は自分を観察する事をジャーナリストとして記録し、無くなる最後まで執筆し続けていらっしゃった。

彼の知識欲はものすごく、あらゆる分野にその力を発揮して本を出し続けた人だった。

彼の両親はクリスチャンであったが、生前に死んだらすべてが終わるとし、魂やあの世を否定していたとの事だ。

彼は「死んだらゴミ箱にでも捨ててくれ」というくらいで、結局、樹木葬になったが、大病をいくつも患っていたにも関わらずそれをバネに毎日を過ごされていた。

2007年発売の『生、死、神秘体験』の中で「人生というのは、いつでも予期せぬことに満ち満ちている。計画など立てたところで、計画通りの人生など生きられるはずがないのである。もし自分の計画通りの人生を生きた人がいるとしたら、それはたぶん、つまらない人生を生きた人なのだ…(略)」と書いている。


生、死、神秘体験―立花隆対話篇

「運」は本人とはまったく関係のないめぐり合わせであり、自然の中ではその連続が今という時間を作っている。

モノを見る側での解釈が千差万別になるのと同じで、運・不運も見方によっては変わるのだ。

「運」という言葉で巧みに欲という心の隙間に入り込み、お金をつぎ込んでも、結果は運が悪い事になる。

何故なら、人知の及ばぬ事であり、人間の行動や言葉、品物で運が変わる事はありえないからだ。

それでも私達は「運」があると信じ、毎日を過ごしている。

別の見方で、「運」を考えて見ると、来るモノでももらうモノでも無く、待っていても良いとされる「運」は無く、同じ事が「不運」にも言える。

それは前述のことわざが示すように、「準備をしておけ」という事になるのではないだろうか?

すなわち、自分を冷静に見る事と、常に学ぶ姿勢でいる事を指す。

謙虚さも必要になるだろうし、想像力も大切な要素になる。

例えば「果報は寝て待て」は、待っていると運として良い事が起きるという解釈では無く、十分に準備したうえで、焦っては元もこうも無いという戒めという訳だ。

早急に事を進めても、また結果を出す為だけに囚われないようにという事を指している。

スポーツでも勉強でも、毎日の積み重ねによる結果であり、それを運・不運という言葉で片づけてしまうと、それまでのやってきた事は、意味のないものになってしまう。

例えば受験で入りたい学校を目指しているとする。

勿論勉強して、成果を出していかないと受かるものでは無い。

何度もある共通テストで実力を知り、弱みを見つけ強化していくだろう。

それでも、受からない事もある。

その年に受験生が多かったのか?病気で体調を崩してしまったのか?予測していた問題が外れたのか?

それを「不運」として捉えてしまうか、それとも一生懸命やってきたかを振り返る事が出来るかで、その後の道は大きく変わっていく。

どうしても結果を重視しがちだが、自分なりに頑張ったなら褒めてやってもいいくらいだ。

結果はあくまでも結果であり、過程こそが全てなのだ。

人間の脳は、端折(はしょ)りたがる。

怠けたくもなるし、後回しにもしたくなる。

ただそれを良しとするのは、「明日も生きている」という前提での事で、考えて見れば博打の様な事をやっているのと同じなのだ。

先延ばしが出来るのも、悔しい思いが出来るのも、明日があるからだ。

だからこそ、その日その日を無駄に生きる生き方を改めなくてはならない。

何が起きるか解らない前提でこの世に産みだされた事を、今一度考えるべきなのだ。

 

事件や事故、病気で命を落としている人達の事をニュースで見ると、私達は、遠目から「運が悪かった」と思って見ているが、自分に降りかかること等、想像もしていないのだ。

誰でも、余命○○年の宣告や終末期、アルマゲドン、人類滅亡といった事を映画や本などで見たりしてはいるが、すぐに日常の生活に何もなかったように戻ってしまう。

しかし現実には大震災が起き、津波に流され、放射能の恐怖にさらされてきた過去がある事を忘れてはいけないのだ。

「生きる」「生き抜く」という生物の原点に還って物事を見る必要があるし、それ無しに明日は来ない。

 

誰も君の生き方を

共有も否定も肯定も

出来やしない

運も不運もそこになく

その先にある物語は

今の君を踏襲する

ならば手放すがいい

固執も執着も囚われも

新たな君が始まる為に

 

運も不運も、過去形で語られるとおり、人間が自然に対して起きうることを予測したり、確実なものとして理解する事が出来ない為に便宜上生れた言葉であり、実際にはそんなものは無いのだ。

冒頭で片目の事を書いたが、フィリピンに住む義理の息子は、生まれながらに片目が奇形していて見えず、それでも頑張ってフィリピンでは上位とされる大学を卒業した。

イジメられた事も何度もあったと聞いているし、何より母、つまり私の妻は彼が幼少期の頃から日本で働き、側にいる事はほとんどなかった。

フィリピンではドラッグや博打、誘拐や強盗等、日本とは比べられないほど道をそれてしまう要素が多く、特に男はまともな職につける人はほんの一握りしかいない。

その様な環境の中ででもグレずに、勉強してきたのだ。

片目だけで勉強する辛さは、想像もできないがとても大変だったに違いない。

彼は片目でも、両目が見える人達よりもちゃんと世の中を見ているに違いない。

そう、運が無かったのか、はたまた運が良かったかを彼の事例で語ることは出来ないし、どうでも良い事なのだ。

毎日を大切に生きている彼は、自慢の息子という事実だけは確かだ。

 

あえて「運」を味方につけるとしたら、明日は無いという生き方なのかもしれない。

 

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