二十代の頃一人暮らしをしていました。
ある日、高校時代の同級生から電話があり、彼は、宗教の事や生き方で親と関係が悪くなって、しばらく泊めて欲しいという内容でした。
それほど親しくはなかったが、「いいよ」と、電話をきりました。
彼が顔を見せたのは、その日の夜。
彼は顔が赤みを帯び、露出している肌は、荒れ、いわゆるアトピーで苦しんでいるようでした。
数日が過ぎ、私の中にある感情が浮かびだしました。
彼の身体から落ちる白いフケの様なモノが、たまらなく不快になってきたのです。
その時の私には、アトピーに対する理解など、これっぽっちも無く、彼と距離を取るように、話しもしなくなりました。
そして彼は、一週間後姿を消しました。
宗教やアトピーの事は、彼にとって、とても大きな問題だったに違いありません。
今でも、もっと話しを聞いてあげれば良かったと本当に後悔しています。
考えてみると、誰かに必要とされた時の自分が、ちゃんと答えてきただろうか?
いや、そもそも必要とされる人間だったのか?
その値にふさわしい人間だっただろうか?
車で走行中、目の前で自転車の中学生が段差で転んでしまいました。
慌てて、車を止め「大丈夫か?」と声をかけると、彼はうなずき、自転車を見ています。
私も近寄って見てみると、スポークが折れて走行不可能になっていました。
乗っていた車はバンタイプだったので私は「家まで送ってあげるよ」と声を掛けました。
不安な顔していたので、「私にも子供がいるから、気持ちが解るよ!心配しないでいいよ」と話すと、彼はうなずいて、自転車を載せ、しきりに自転車を壊した事を気にしていました。
家まで送っていきましたが、この時、私は彼の家族が出てきて、お礼の言葉を貰えると、期待していました。
結局現れず「気を付けるんだよ」と言って帰りましたが、あの彼が、大きくなり誰かの役に立つ、ほんのキッカケになれば、私のやった事は決して無駄ではなかったと、家に帰り、幼い我が子を見た時に思ったのです。
と同時に、見返りを求めていた自分がなんて小さな人間だと、自分に腹を立てていました。
何処かで、見返りを求めている自分がいるのです。
何か、役に立った事の証としての見返りです。
誰かの為。
それを、さり気なく出来る人間でいたいはずなのに。
今も、それが出来ているかと問うた時に、正直まだ自信がありません。
あなたが「偽りの自分がいる」と感じる事は、良いキッカケにもなります。
自分を探す新しい旅の扉を開けたのですから。
考えてみると、自分を嫌な人間、情けない人間と捉えているのは、正そうとする心を持っているという事にもなります。
現実と理想の狭間での葛藤が、あなたに必要だったからです。
見逃している人の仲間にならないように、気を付けなければいけません。
もしあなたが過去に戻り自分に会えたら、きっとアドバイスだらけでしょうね。
そして、もしその通りにしたら、いまのあなたは、もしかしたら存在しないかもしれませんね。
パラドクス(paradox)逆説、背理、逆理の「もし」ですが、私も同じように過去の岐路に戻りたいと、思う時が今もあります。
やり直したい人生は、世界中に溢れている事でしょう。
通ってきた道は引き返せません。
また、今この瞬間も枝分かれが訪れ、選択を意識、無意識でやっています。
でも、決めたのは、あなた自身です。
誰かのせいにしても、責任は全て自分にあります。
そして、傍観者のままでいては、いつまでたっても選んだ道の景色は変わりません。
何をするのも、その動機が不純であっても、やらないよりは、遥かに良いと思います。
異性にモテたいでも、お金が欲しいでも、有名になりたいでも、どんな動機でも、行動する事が大切なのです。
若さそのものが、行動を起こすキッカケになる事は、とても素晴らしく思います。
なぜなら、沢山の失敗や後悔を学べる時間があるからです。
乗り越える力があるからです。
ただ、偽りの自分を抱えたまま生きていく事は、やはり辛い事です。
とても疲れます。
常に自分に、他人に嘘をついている事になるからです。
そして、偽り自分は「孤独」の中で生まれ易いのです。
「孤独」でいる事の不安や怖さは、多くの人が物心つく頃から、死ぬまで付きまといます。
なぜなら、必要とされ、必要とした時に感じる感情だからです。
「独り」という完結形には、なり切れない想いがあるからです。
そして孤独なままの出会い。
それは、相手を私物化したがり、見返りを求めるのです。
と同時に、相手に刃を向ければ、自分が傷を負う事になります。
そして「孤立」を生み出してしまいます。
生まれる時も、死に行く時も「孤独」ではなく「独り」なのにです。
人間は弱いものです
弱さを、食い物にし、利用すれば、弱さがあなたの支配者になります。
弱さは、身を隠す為吠え続け、他人を威嚇するのです。
私の尊敬する、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)
ドイツ出身の理論物理学者が、色々な名言を残していますが、その一つに、
「I believe that a simple and unassuming manner of life is best for everyone, best both for the body and the mind.」
『シンプルで控えめな生き方は、誰にとっても、体と心の両方にとって最善であると私は信じています。』
支配者となった弱さを追い出す為の、キーワードになるのは「謙虚」です。
謙虚さは決して美徳ではなく、何かを必要としない内なるモノで、一歩後ろに下がる事で、見えてくる他人の背中や、自分自身のもろさを理解し、尊厳を持つ事です。
多様性を必要とする押し付けのない優しさ。
晴れていても、雨であっても淡々と受け入れる強さと寛容さです。
偽りの自分は、実は本当の自分という事を、受け入れ、理解しなくてはいけないのです。
内なる強さは境界の線引きをしない。
人を選ばず、動じず、時に石のように、時に雑草になり見守る。
見返りそのものが、意味の無い期待であり、期待すら入り込む余地が無い。
「謙虚」という強さは、内なる血や肉となり、主導権をあなた自身に作り出します。
「偽りの自分」と感じていても、「謙虚さ」が、本来のあなた自身を表に出してくれます。
弱さは、偽りの自分を作り出し強がろうとするのです。
ありもしない自分で作った敵と戦う事になるのです。
「謙虚さ」があなたを包み、あなたから、こぼれ出した時、
実は初めから偽りの自分なんて、存在していないのに気付くのです。
自分で勝手に作り出した、虚像にすぎません。
戦う必要も無かったのです。
心は、相反するモノを作りたがります。それは勝者に成りたい為だからです。
時に、廻りを巻き込む事だってしてしまうのです。
「これが正しい生き方だ」と。
冒頭で書いた、自転車の話は、当時、偽りの自分と理想とする自分のと葛藤でした。
けれども、どの自分でいるかの選択で苦しむ事では無く、
初めから自分は、自分でしかなくそれ以上でも、それ以下でも無いという事に気付けば、私が自転車の彼にした事は贈り物であり、むしろ受け取ってくれた彼に感謝する事だったのでした。
本音と建て前の言葉があるように、常に自分という個性も含めた本質のまま、行動や言動が出来ないのは、今の社会の中で生きていく上では、仕方がない事かもしれません。
だからこそ「謙虚」に生きる事が、選ぶ自分の道を修正し導いてくれます。
あなたが、あなたの傍観者だけにはならないようにしなくてはいけないのです。
「Humans who are not sincere about themselves are not qualified to be respected by others.」
『自分自身のことについて誠実でない人間は、他人から重んじられる資格はない。』