藤野高明さん83歳(1938年生まれ)をご存じでしょうか?
NHKの番組で、藤野さんの存在を知りました。
コンクール「NHK障害福祉賞」。2002年に最優秀賞を受賞した元教師の方です。
1946年戦後すぐ、不発弾で、両腕の手首から先と両目の視力を失い、差別や障害者には、ほとんど社会がが受け入れようとしていなかった時代に、苦労し勉強を重ね、世界史の教職を得、30年間先生として教壇に立たれた方です。
目の手術(結局治らなかった)で入院中、看護婦さんとの交流をきっかけに点字を習い、唇で読むことまで習得。
妹さんや、大学の友人達に助けられ、自分の道を切り開いた、番組の中での藤野さんの言葉は、とても重く心を揺さぶるものでした。
「文字の獲得は光の獲得でした」
5年間の入院生活で、点字を習得し、点字を通して学んでいく藤野さんの言葉は、当たり前のように学校に行き、文字を学んだ私にとっては、当たり前という事が、そうでは無いという事を改めて強く感じました。
大学での生活を送るうえで、職員が「あなたの事は責任が持てない。
もし何かあったら困るでしょう」と、大学をやめさせるような言葉を言われ、
「何かあったら困るのは私自身」と、責任逃れの言い訳をする職員に対し思った事や、「学校に残って」と友人たちが支えになった話の中で「助けてもらう事は恥ずかしい事では無い」とおっしゃっていた言葉。
藤野さんの原動力になったのは、周りにいた素晴らしい人達と、手記にも書かれていた「障害をもつだけでも多くの苦痛と不利益を受けるのに、まして社会的につくられた不就学という不利益まで強制されたのでは、障害児とその家族は浮かばれません。」という思いだったそうです。
番組の後半、お孫さんに
「運命は解らないもので、あなたが生まれたのは奇跡であり、自分と他人の命を大切にするようにと(要約)」と話されていた藤野さんは、穏やかで、優しいお顔をされていました。
番組は1時間でしたが、藤野さんのほんの一部の話であり、その後ろにある長い人生を考えると。頭が下がる思いでした。
「人間てすごい」まず見た私の感想です。
このように生きてこられた人のお陰で、世の中も少しずつ良くなって来た事と、何より自分の置かれた立場を負と捉えず、前向きに歩いてこられた名も知らぬ人達に、想いを馳せさせてくれた事に、感謝しかありません。
普段の生活の中では、藤野高明さんのような、障害を持たれていらっしゃる人達の存在を身近に感じ、接する機会がほとんどありません。
今回、私が考えさせられたのは、
私の中に「ちゃんと自分は生きてきたのか」「自分がそうならなくて良かった」「時代が悪かった」という負い目のような、言い訳のような感情を持ったことです。
自分の事として考えようとしても、そこまでに至れないもどかしさや痛みを、そんな気持ちをどう受け止め、整理すればいいのか。
そして、ひそかに覗く「優越感」のような感情に情けなさを覚えたのです。
無関心である事は良くない事です。
が関心がありながら落としどころを探している自分に、改めて気づかされました。
差別や排除は、いつの時代にもあり、今なおくすぶり続けています。
「自分は、そんな人間ではない」と断言する事が出来るでしょうか?
社会は、常に変化して、心がなかなか追いついていけません。
インターネット社会がもたらす恩恵は、同時に多くの不幸をもたらしました。
情報の共有が共感となり、それに同調できないものを排除してしまったり、常に誰かの視線にさらされている感覚が、本来の自分を隠し、理想の自分像として振舞ったりと、枚挙にいとまがない状態です。
自己保全の力が当然働き、同じ事をを良しとし、
「赤信号、横断歩道をみんなで渡れば……」という心理で群れ、不公平感や不満を他人の問題にすり替えて、満足を得ようとする人達が増えるのも、仕方が無いかもしれません。
しかし、その事を放置する事は、差別や偏見を蔓延させるウイルスのように、誰にでも起きうる事で、拡散し連鎖して、押さえていた、ないしは隠れていた負の部分を、表に出させてしまいます。
誰にでもある自己保存の本能が、自己の中で満足感を得られない為、犠牲になる何かが必要になるのです。
一部の人達の事例でいうと、
「クジラやイルカは、知能を持ち可愛いから殺すな」と言いながら牛や豚肉を食べている事実。
寂しいから、可愛いからとペットショップで命を買い、一方で捨て猫や犬の多くが安楽死されている事実。
加えて、動物をネタにし、ドラマティックに演出してまで流し、捨てられ、虐待されている事実を啓発し問題に取り上げないメディアの数々。
裏返せば、その時の気分や正義感を含め、「感情」が命をもてあそんでいるのと同じです。
そのターゲットが人に向くと、差別や偏見、排除と繋がっていくのです。
それは誰にでも起きうる事です。
心の中での良し悪しの線引き自体が、隠れているウイルスの発生源かもしれないのです。
振り返ると失敗や情けない事、人の心を傷つけてしまった事等、背中に沢山しょっています。
ちゃんと子供の手本となっているか?伴侶にふさわしい人間か?人生を無駄に生きてはいないか?
毎日のように、自分に問うています。
今日まで思い通りの歩みとは言えませんが、負の部分も含めて、それもまた私の人生であり、自身で選んできた道です。
だからと言って、「良し」としてはいけないのです。
それは、「変わる事が出来る」という人間の持つ強さであり、留まる事を選ぶ弱さを「謙虚」と「想像力」で乗り越えられるのです。
人の顔は、その人の人柄をよく表していると思います。
生きてきた中での、苦悩や悩み、試練を乗り越えてきた人達の顔は、語らずともうかがえる表情の中に見える「謙虚さ」や「信念」。
裏返せば、自信の無さや負の裏打ちが顔に表れるともいえるかもしれません。
私なりに生きて中で、いつも思う事は、自分としっかり対話する事の大切さと、過去から学ぶ事、
いくつになっても、学ばなければならない、言い換えれば好奇心や想像力を持ち続ける事がとても必要であり、
心優しき人達を呼び寄せられるような人間でいなくては、いけないと思うのです。
いくつになっても世の中には、まだまだ知らない事が多すぎます。
そして、知れば知るほど疑問だらけになってしまいます。
「誰かと比べて、まだましな方だと」それが単なる錯覚にすぎず、言い訳にもならない事や、お金やモノに対する執着も、解ってはいても捨てられない自分がいる事も。
それでも、生きて行かなくてはいけない事も。
この世に遊びに来て、還らなければならない事も。
世の自然は、とっくに答えを出して、この世界を謳歌している事も。
「Never do anything against conscience even if the state demands it.」
『もし状況がそうすることを求めても、良心に反することはどんなことであってもするな。』