誰かを傷つけ
嘘をついてその場しのぎをし
恨んだり憎んだり
怒ったり羨(うらや)んだりした時
その手に握っていた鍵で開ける
思い出の引き出しの中に
何が入っているのでしょう?
あなたが持っている鍵はきっと
逆上がりが出来た時
友達と、倒れるほど飲み明かし
心揺さぶる音楽との共鳴
新しい命との出会い
そして
誰かを必死で愛している時の鍵
引き出しを開ける度
幸せの笑みがこぼれ落ちるだろう
多くの人が幸せになりたいと思って生活し、様々な媒体を使って生き方や、悩み、人生論を読んだり、聞かされたり。
その時は「ん-ん、そうだったのか」と思い、自分の糧として取り込むようにします。
偉人たちが残した言葉も、親が伝えてきた教えも、頭では理解していても、なかなか実践には至らない。
断捨離をし、偉いお坊さんの話に納得をし、テレビの有名人の話に共感を得たり……
けれど、いつの間にかそれは理想になり、自分には無理だと思い始め日々の中に埋もれていくのです。
そして後悔し、再び情報に救いを求め始める。
それの繰り返しが実情なのでしょう。
人間は飽きっぽいし、欲もあるし、自分が可愛い。
常に刺激を求め、他人と比較するもので、
でも、その感情が無ければ、進歩も向上も無かったのも事実です。
そして、その感情を利用して商品が売れ経済を回しているのです。
次から次へと、人々の欲求を満たそうと個人も企業も必死。
タワーマンションに住み、高級外車を乗り回す人がいれば、ホームレスの方が数百円の収入を得る為、アルミ缶を集めていたり、虐待され施設に預けられたられる子供がいるかと思えば、有名小学校に通い、習い事をしたりと、本人が望む望まないを別として、公平で平等ではない社会に私達は暮らしていて、民主主義でも共産主義でも、一律の「幸せ」「幸福感」それは不可能な事です。
一昔前までご飯一つ焚くのも洗濯するのも、もっと遡れば日々の糧を得るのも時間がかかり労力を伴いました。
移動も徒歩から今では様々な移動手段があり、行動範囲も格段広くなっています。
スーパーで食品をいつでも買う事ができ、様々な家電が時間の節約に貢献しているにも関わらず、私達は日々生活に追われ時間が無いと嘆いているのです。
沢山の情報が手に入り物事が短絡的になった割には時間に余裕が無くなったと感じるようになる。
あれもこれもと、やらなければいけないような強迫感がつきまとい、落ち着きが無くなっています。
一つの物事を成し終えると、また次々と欲求を満たさなければという性(さが)からかもしれません。
人間の幸せは、何処に行くのでしょうか?
外から与えられるのか、内なるものなのか。
神や仏の言葉と称し、また哲学者が幸せの定義を論じ、
時にそれは本質を見失させてしまい、
その言葉だけが独り歩きしてしまいます。
なぜなら人間は一つの法則、例えば宗教や伝える人達を信じる事からスタートし、その範囲内で「幸せ」になる方法を学ぼうとするからです。
自らの世界、視野を狭くして「幸せ」が見つかるでしょうか?
人間は一人では生きていけない動物であり、繋がりを持とうとします。
そしてシンボルになるモノを提示し作り、結束しようとします。
行動は制限され、考え方も一方向になり、従わなければ排除してしまう事も起きます。
良い方向に向けば少しは世の中に平和を生み出しますが、残念ながら歴史はそう見てはいないようです。
一人一人が幸せという概念を持ち、価値観や環境が違う中で「幸せ」とは?を定義する事はなかなか出来ないのです。
何か目標に到達した時や成し遂げた時、その折々には「幸せ」を感じていても、次々と幸せという価値観が変わっていき持続しないのです。
ただ、過去形として人は「幸せだった」「不幸せな人生だった」と語る事は出来るのです。
それは「欲」が消えた時に発せられる言葉です。
見方を変えれば、望む事が出来なくなってしまった状態であるかもしれません。
体力的な理由や老い、病気や死に直面した時など、自分の力ではどうにもならない時かもしれません。
元気で日々生活している中で、「幸せ」を感じる事が出来れば、感じる回数が増えれば、生きがいにも、活力にもつながります。
幸せはモノに頼ると所有欲や優越感という幸せとはかけ離れた要因が入り込み、一時的には感じるかもしれませんが、いつまでたっても幸せを味わう事はありません。
一時的に満たされたように感じるだけで、モノが手に入るとまた次のモノへと、際限なく欲求を満たす事に「幸せ」が置き換わってしまうのです。
では、「幸せ」を人を通して見つけようとしましょう。
多かれ少なかれ人生において、人間関係という繋がりは必ずあります。
ほとんどの人が、孤独で寂しい人生を送りたいとは思っていません。
親や友人、パートナーとの出会い、子供に囲まれる事は人生においてエッセンスのように「心」を豊かにしてくれます。
ただ誰もがその出会いで幸せになる、味わえるわけではありません。
関係性が深ければ深いほど、心配事が増え、裏切りや不満、嫉妬など、人間関係で崩れてしまう人達が多くいるのも事実です。
幸せになる為という行動が、不幸せな結果になってしまう事だって沢山あるのです。
心理学者『アルフレッド・アドラー(Alfred Adler)』は「人間は、対人関係の中でしか幸福を実感することができない。」という言葉を残していますが、はたしてそうでしょうか?
アドラーが考える幸福という概念が、本当に正しいのでしょうか?
人間も自然の中の一部でしかありません。
人間が「火」を手に入れた時、どれほどのありがたみを感じたでしょうか?
食べ物の食べ方も変わり、夜を照らし、暖をとりとまるで魔法のように神のように考えていたでしょう。
キャンプファイヤーも、暗い中火を囲み歌い談笑する、たったそれだけで暖かくなります。
身体を温める事は、心が暖まる事とよく似ています。
誰かに抱きしめられている時や手から伝わるぬくもり、沢山の人達に囲まれる安心感。
あなたが「幸せ」と感じた事を思い出してみて下さい。
友達と遊んだ時?
好きな人といる時?
子供が生まれた時?
仕事がうまくいった時?
大自然の中、一人で眺めた景色?
人の数だけ、沢山の「幸せ」と感じた時間があったはずです。
その時、あなたの心に暖かいものが流れていたはずです。
そして、優しくなっている自分に気付いたと思います。
結局「幸せ」は、心の持ちようという事になります。
けれどそのような気持ちを持ち続ける事は、なかなか人間はできません。
一時的には、モノや人で満たされ「幸福感」を得られても、それは「幸せ」の本質では無いのです。
人間関係だけに限らず、道に落ちているゴミを拾っただけで温かい気持ちになれます。
花を育てている時もペットと散歩する事でも、困っている人を助けた時も誰かを励ました時も同じです。
それは欲しかったモノを手に入れたり、仕事や競争で味わう満足感を得たりする事では得られない温かみであり、受け身ではなく自らの働きかけによって得る事が出来る心の豊かさで、目標を達成した時に得るものより、そこまでに至る過程で得られる心の動きです。
どうすればいいのでしょうか?
それは自ら幸せを見つけに行く事です。
例えばあなたがコンサートや映画を何の為に見に行くのでしょうか?
そこに 楽しみや幸せを見出しに行くのではないでしょうか?
それと同じように人も含めて、様々な事に対してあなたからその中にある幸せを見つけに行く事です
あなたが普段目にするものに対し、あなたから働きかける事で得られる事をただ見逃しているだけです。
大切な人がいる事、元気でいるだけで十分。
あなたが発する言葉で、元気にも楽しくにもする事が出来ます。
雨でびしょ濡れになっても、実りの雨に打たれたと思う事だって出来ます。
息を思いっきり吸い込む事が出来る事。
色で溢れている世界を見られる事。
あなたがその中に入っていくだけで、沢山の温かみが流れ込んできます。
その連続を途切れないように、あなたから働きかけるのです。
たとえ小さな事でも積み重なっていくのです。
人間以外の自然はあるがままであり「不幸」も無ければ「幸せ」もないのです。
ただ、人間が関与する事で幸せや不幸せを作り出してしまいます。
一つ例を出して考えてみましょう。
身近であるペットの犬や猫です。
役に立つよう、用途に合わせて人間が品種改良してきた動物です。
家の中で飼われて、時には抱かれている犬や猫を見てある人は「大事にされて良かった」と思い、「可哀そうに!外で走り廻させてあげるべきだ」と考える人もいます。
人間が勝手に思っているだけで、犬や猫はあるがまま受け入れているだけです。
人間を楽しませ役に立つよう品種改良され、血統という価値を付けられペットショップで売られ、飽きたら捨てられる。
それでもあるがままなのです。
犬の祖先、仲間である狼。
日本ではニホンオオカミが狂犬病という理由(その他、狼信仰も)で殺され絶滅しました。
結果、食物連鎖の輪を壊すことになり、天敵が居なくなった事でそのツケを払わされているのが人間です。
動物に幸せの概念があれば、なんと不幸せな動物たちが多くいるのでしょう。
きっと人類の敵になってもおかしくないくらいです。
「幸せ」という感情は人間だけが追い求め、感じ、原動力にする事が出来ます。
と同時に共感し、分け合う事も出来る素晴らしい能力です。
だからこそ、自ら「幸せ」を探すのです。
自ら幸せを見つけに行動するという事は、命に対する「尊厳」であり、その為の「謙虚さ」なのです。
日常の中で逃さないように少しずつ見つけた上辺だけでは無い「幸せ」はやがて心を満たし、あなたからこぼれ落ちます。
それは、まるで乾いた大地を潤すように。
そこから芽生えた若葉が、あなたの知らないうちに大きく育つのです。
「幸せ」は連鎖していくのです。
アインシュタインにきいてみよう アインシュタイン150の言葉
アインシュタインの言葉より
「Tables and chairs, fruit and a violin. Besides this, is there anything you need for people to be happy?」
『テーブルとイス、フルーツとバイオリン。これ以外、人々が幸せであるために必要なものがあるだろうか?』
振り返ると昔レコードを買い、盤を拭き、静かに針を落とし、ジャケットを眺めコーヒーを飲んでいたあの頃のようなプロセスの音楽の聴き方が、何より大切で心が豊かになる時間でした。
遠回りもまた「幸せ」を見つけるチャンスが増える事になるかもしれませんね。
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