「過去の事だから、もういいんではないか」
「過去の事でも責任はある」
未来に対しては、想像という形で、接する事が出来ます。
過去は経験という形で、思い出せます。
未来も過去も、自分がかかわった事には、責任があります。
その責任は、済んだ事なのか、終わって見なければ判らないかの二通りですが、
時間は、事情などお構いなしに、刻まれています。
すなわち、今この瞬間、過去にになり、未来になっているのです。
責任は、あなたが生きている限り、常について回るともいえるのです。
例えば帰り道、あなたが石ころを蹴りながら、歩いていて、この時点では、責任は発生していません。
運悪く、石ころが子供に当たり怪我をさせてしまうと、あなたが責任を取る事になります。
もう一つの例で、車を運転する事自体は、免許があれば、誰もが出来ますが、この場合、常に責任を運転者が持たなければなりません。
凶器にもなる車の運転は、常にリスクがある為、免許というルールの下、自由裁量が認められているのです。
「イジメ」で考えてみると、運転者にあたるのは、
教育委員会や先生等、専門分野での免許等を持って子供達に接している人達と、
未成年者を監督する義務がある親で、常に責任を伴います。
一方、石けりは、蹴って歩く時に、わざと人を狙って蹴っている状態です。
それを見て注意しない人は、傍観者であり、
他の誰かが逆に狙って蹴り返してくれば、被害者にもなります。
イジメの場合、特に子供では一概に明確な責任の所在や取り方を決められません。
そこに根深い難しさがあるのが現実です。
責任という言葉は、自由と深く関係しています。
石ころを蹴る事も、運転も条件をクリアしていれば、誰でも自由に出来ます。
反面、何か問題が起きると、必ず責任を取らなければいけません。
問題なのは、過去の過ちの清算という難しい事です。
私自身、イジメを受けた事があるので解るのですが、イジメられた側は絶対に忘れません。
もし、その時の相手に今、会えば殴ってやりたいと正直思います。
TVや番組等で露出している人の中に、
「昔は悪かったが、今はまじめにやっている」とか、
「暴走族だったけど今はまともになった」という話を聞きます。
私の身近な人の中にも、過去のヤンチャぶりを面白おかしく話す人がいますが、
大抵、「立ち直って良かった」「頑張って真面目になった」「過去の事だから」などのコメントが多いのが事実です。
低い位置からの、立ち直りとして見るからですが、
その彼らが言う昔に、迷惑を被った人がいて、辛い想いをした人がいたのです。
そして、その人達は今でも記憶に残り、思い出すのです。
何より、悪い道に、誘惑に負けずに頑張ってやって来た人の方が、
「頑張った」と言われる人達です。
悪の道を逃げ道にすることは、真面目に生きるより安易だからです。
どうすれば過去の過ちに責任が取れるのでしょうか?
それは、一生背負って生きていく事です。
「過去の事だから」「許す」は被害者が言う言葉です。
許す事が出来るのは、被害者だけです。
もし自分で自分を傷つけたなら、自分自身を「許す」しかないのです。
第三者が許す、許さないを決める事ではありません。
過去に戻れない以上、やり直しはありえません。
償う事が出来るのは、過ちをおかした本人だけです。
そして「今」と、これからという「未来」に生き方が問われ、反面教師として向き合い、
新しい自分を見い出し生きて行く事になるだけです。
自分と、過去と常に向き合う事になり、時に心が折れそうになる事でしょう。
世間という名の制約が、付きまとい、煩わしさから自分を見失うかもしれません。
それでも、生きていく事の、自分の生きている意味を見つけながら、
前に進むしかありません。
正せるのは、本人だけで、自身が気付けなければ、過去がつぶしにかかってきます。
どんな理由にせよ、人の道から外れた行いは、許されるものではありませんが、
やり直せる社会は、とても重要です。
そして、そのキッカケになる人達との出会いの場を、社会が受け止め、支援し認める事が、ひいては社会全体の質を高める事になります。
執拗に責める社会は、結果的には誰もが息苦しい社会になってしまいます。
生きていく上で大なり小なり、誰でも誰かを傷つけたり、
傍観者であったりと、負の記憶として残っているものです。
でも、決して忘れてはいけないのです。無かった事にしてはいけないのです。
忘れない事が、今とこれからの道の選択を正しい方向へと導くからです。
いつの世にも、権力者や組織のトップ、著名人に学者と言われる人達の責任の取り方に、疑問や不信感をいだかせる事例が多くあります。
発言や行動が、社会に大きく影響を及ぼす人達は、尚の事、自由と責任の表裏や配慮を意識しなくては、誰も信用しなくなります。
責任の所在がうやむやになり、結局だれも責任を取らない社会は、過去から学ぶ機会を自ら放棄している事になります。
言い訳になるような責任の取り方も、意味が無い愚かな責任逃れです。
原発でも、自然災害でも、想定外と言えば納得できるでしょうか?
忖度も、政治家の言葉も、訂正し、無かった事にしてしまうと、ますます言葉の持つ力や重みが薄れて、人を、心を動かせなくなります。
トップとして、リーダーとして、決してやってはいけない事で、その資質を問うべき大きな問題です。
若者が、失望するような責任のなさが、将来を描きにくくしている事に気付くべきです。
この時代、発信する方法が個人レベルまで容易になり、時にデマや中傷を生み出しやすくなりました。
発言の自由は、責任という裏打ちが必ず伴い、また、傍観者にも拡散者も同じ意識を持たないと、安易な行動で、思わぬ方向へと導いてしまう事になります。
過去と向き合い、前を向き懸命に生きている人達を、応援できる社会にしたいものです。
アインシュタインの言葉より
「We cannot despair of humanity, since we ourselves are human beings」.
『人間性について絶望してはならない。私たちは人間なのですから。』
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