夕暮れ川面は金色コイン
ときどき小魚飛び跳ねて
コインの数を増やしたよ
夕暮れ木漏れ日 銀色コイン
ときどき風が揺さぶって
コインを空にばらまいた
自然の見せる計らいが
心の中に貯まってく
記憶の色の貯金箱
他の感覚についても同じ事が言えます。
心に響く曲や美しいハーモニー、生の楽器の音にたくさん触れてきた人と、音程が外れているシンガー(特にライブで解るのですが)やテンポの速さでごまかす歌を聞いてきた人とは、同じ音を聞いても違って聞こえているはずです。
商業ベースの視点で考えると賛否別れるとこではありますが。
以前、ラジオでシベリア抑留された語り部である、野村定男さん(当時98歳)のお話を聞いていたのですが、待遇が少しマシだった部署にいて、労働先の家で女性が不憫に思ったのか、出されたふかした芋が「旨くておいしい最高のご馳走ものだった」という様なお話をされていました。
豊かでなかった時代、貧困でちゃんと食べられなかった時、その時に食べた大切な味は、最高の五つ星だったかもしれません。
私は幼い頃の雨の匂いが大好きでした。
水たまりに足で波紋を広げながら、打ち付ける雨が土を舞い上げて作り出す匂い。
今でも雨が降ると、楽しくて仕方なかった幼い頃を思い出すのです。
誰かのマネやマスメディアが作り出す演出、誇大広告の様なプログラムに踊らされていませんか?
美味しくないものを、美味しいと表現する嘘に騙されていませんか?
行列の出来る店の味、皆が口をそろえておいしいといわれる食物、ホントに美味しいのでしょうか?
料理長が美味しさを判断するのは、はっきり言ってどうでもいい事です。
星の数で美味しさが決まるはずもありません。
誰かの味覚、臭覚が基準になる事、本当に意味があるのですか?
ブランドや銘柄に騙されていませんか?踊らされていませんか?
どんなにカラオケの点数が高くても、その唄は心に届いていますか?
勿論、全て否定し、悪だとは思いません。
それで飯を食っている人達が大勢いる事も、信念をもって頑張っていらっしゃる方がいるのも事実です。
本人がそれで幸せなら、文句を言う筋合いでも無い事ですし、素敵だとも思います。
ただ、皆が同じ方向で動く事の不気味さの裏にある、同調や容認、忖度、圧力があるとするならば、そして知らぬ間に植え付けられてしまっている としたら、そこから出てくるモノに何の価値があるのでしょうか?
少し視点を変え、様々な角度で考える事の方が、これからの時代に必要な事であり、そうならなければ社会は力や金で縛られ、萎縮する事になります。
味覚や臭覚は単に美味しいかどうか判断するだけではなく、それを口にしても安全なものであるか、食材が良い状態かどうかは、生きる上での大切な感覚です。
視覚や聴覚は情報を得る為には欠かせないものです。
感覚は、経験が豊かであればあるほど、その人の幅を広げる事になります。
特に脳が柔らかい幼年期から青年期までは、感覚を鍛える大切な時期だと言えます。
鍛える、すなわち脳に様々な環境や豊かな経験を味わわせるという事です。
情報を一方的に受け止めてばかりだと、幅は広がりません。
また、受け取っても右から左に抜けていくだけなら、ただの伝言ゲームで、下手をすれば間違った伝え方をする事だってありうるのです。
芸術や技術、仕事や生活などの上で感性が問われ、また発揮しなければならない時代です。
そう、誰かに勝手に色付けされる必要など無いのです。
自分で聞き、味わい、心に染みわたる感覚を忘れない様に。
そして自らの言葉で伝えて下さい。
アインシュタインにきいてみよう アインシュタイン150の言葉
「Study and, in general, the pursuit of truth and beauty is a sphere of activity in which we are permitted to remain children all our lives.」
『学ぶこと。そして真実と美を追求すること。このことに関しては、ずっと子どものままでいていいのだ。』
↓ あなたの支援で助かる命
「変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
↓ みんなで社会を動かす仕組み