心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

生と死の狭間(はざま)(1)

私の父は再婚だった為、父方の親戚とはまったく縁が無かったし、会った記憶も無い。

以前も書いたが高校生の頃、再婚という事実を聞かされ3人の腹違いの兄がいる事を知り、ビックリしたものだ。

父は一切自分の生い立ちや親類の事を話さずこの世を去ったが、遺品整理で家系図が出てきて始めて父が養子に出された事を知った。

一方母方は、昔の家族構成である沢山の子宝だったので、母を筆頭に叔父2人を含め7人も兄弟がいて、祖父母の実家に集まる正月は本当に賑やかだった。

 

昨年末、尊敬し優しかった母方のもう一人の叔父が亡くなった。

人生100年時代。もう少し長く生きて欲しかった。

少年時代、祖父の家に長期の休みになると必ず泊りに行っていた。

夫婦喧嘩がイヤだった事もあり、優しい人達に囲まれての生活は夢のようだった。

当時祖父の家はフスマ屋を経営して、朝から夜遅くまで祖父と長男である叔父が働いていたが、私が泊りに行くと、手を止め小遣いを箱から出してくれたり、遊んでくれたりと、祖母も含め幸せの時間を過ごさせてもらった。

しかし叔父が結婚して間もない頃、突然倒れ他界してしまった。

膵炎(すいえん)だったらしい。

私も結婚してすぐ、急性膵炎になってしまった。

最初は軽い熱が出て、いつまでも治らない為病院へ。

風邪だという事で薬を貰い帰宅したが、いつもと違う予感がし、再度病院で検査。

即入院で丸1カ月絶食と点滴でようやく回復した。

膵臓は悪くなってもなかなか症状を出さない臓器で、発見された時には命に関わる事が多いと聞く。

叔父も、無理をして働き我慢していたに違いない。

それを考えると、今でも心が痛む。

亡くなった叔父が祖父の家に運ばれ、叔母たちを含め親族が身体を拭き、白い着物を着せて横たわせていた。

その作業をジッと柱の陰から見ていた。

叔父の鼻や耳、口は綿を詰められ布団の上で寝かされている白くなっていた顔を見た時、小学生だった私は悲しいというより「死」を間近で見て恐ろしくなったのを覚えている。

そう、息をしていない人を間近で見るのが初めてだったからだ。

同時に病院から葬儀社という今の様な一連の流れではない当時の儀式を始めて見た私は、余りにも衝撃的だった。

そして同時に死んだら全てをさらけ出さなければいけないという事と、全てが終わりになるという漠然とした想いを描いた。

叔父の死後、数日たって日記が見つかり、そこに私の名前が何度も書かれていた事、そして可愛い奴として愛してくれていた事を知り、死後泣くのを我慢していた小学生の私が大泣きしてしまった。

叔父は一人の娘が生まれたばかりでこれからという時の死。

胸中を思うと本当に悔しかったに違いない。

そして、冒頭に記した二番目の叔父が他界したのだ。

兄である長男の叔父の死後、サラリーマンを辞め実家でのフスマ屋を継いだ次男の叔父は、当時二十代後半だったが、仕事を必死で覚え祖父や祖母の死を経てフスマ屋を時代に合わせて内装にも手を広げ、ビルが建つほど大きくしていった努力家で、想像するに大変だったに違いない。

しかし私に対する態度は長兄の叔父と変わらず、いつも笑顔で優しくよく遊んでもらった。

中学生になる頃からだんだんと会う機会が減って、最後にあったのは私の母の葬式だった。

私の弟が叔父に借金をしていたり、私の実家と叔父の創価学会日蓮宗の分裂など親族間でもめていた事もあり、疎遠になってしまったからだ。

私自身は宗教に属してはいなかったが、事あるごとに絡んでくる宗教問題に嫌気がさしていた。

それでも、電話を掛けると優しい声で近況を聞き励ましてくれた。

 

叔父には私の従姉妹にあたる3人の子供がいたが、ほとんど交流は無かった事もあり、叔父の死で母方ともこれで縁が無くなってしまった。

私が結婚し、子供を連れて叔父に会いにいった時の嬉しそうな顔を今でもハッキリ覚えている。

 

叔父の死は妹からの連絡で知ったが、その時点で死後1っカ月以上たっていて、葬儀にも行けなかった。

長年の飲酒と肝硬変、糖尿病で、最後は肝臓癌が脳に転移し亡くなったとの事だった。

その一報を聞いた時に、疎遠になってしまっていた私は後悔と、二度と会えない想いが重なり、本当に落ち込んでしまった。

叔父から沢山の愛を貰って、その恩に報いる事がちゃんとできていなかった事を改めて考えてしまい、自分に対し腹が立って眠れなかった。

いつまでも叔父が生きていると思っていただけに、改めて自分の歳と年月の流れを考えさせられた。

ニュースでも俳優やコメディアンの方の訃報を耳にする事が多くなり、昭和がどんどん遠ざかっていく様で寂しい気持ちになるが、昭和で数えると昭和98年度にもなるのだから、仕方が無い事でもある。

「死」は必ず訪れ、別れの時が来る。

 

人間性や道徳感、年齢など考慮もされない不公平で不平等なものだ。

死を急ぐ者がいるかと思えば、生きたいと病床で祈る者もいる。

戦争や紛争で命を落とす人達もいまだ多い。

何度も書いているが生きることそのものが「苦」であり、逃れる事は「死」以外に無い。

死ぬ為に生れたと言ってもいいかもしれないが、死ぬ準備をする為では無いはずだ。

生物は生きる事で子孫を生み出すからだ。

例え我が子でなくとも、血が繋がっていなくとも人間という生物がこの星で絶えないようにする為なのだ。

病院から葬儀社という形が定番となり、死者との対話する時間が対峙する時間が薄れてしまった現代。

私が幼い頃感じた身近な死の貴重な体験は、無駄にはなっていないと思う。

死は決して老人だけの話では無いはずだ。

しかし現実は、誰もが高齢になる事を前提で物事を考え、拍車をかけるように「信じなければ救われない」「貢献しなければ子子孫孫に遺恨を残す」等と死後の世界をまるで体験してきたかのように語る輩により、献金や墓地を買っている。

一方で、故人の遺品整理に戸惑ったり、家やお墓をどうするかという問題が、少子化や過疎化の問題も重なり、大きな問題になってきている。

 

当たり前だが死後に出来る事は無いし、まして生きている者に悪さをする事など出来るはずもない。

以前にも書いたが、人類は誕生して以来、様々な地域に進出し争いが繰り返されてきた。

もしルーツをさかのぼれば誰の祖先にも負の歴史があり、人を殺めた人物がいたのだ。

先祖の事やカルマ、輪廻転生という言葉で生きている者を惑わす、惑わさせられる事は、本来の言葉の意味から逸脱し、間違った解釈をしている為に起きる。

言葉の意味を調べ、知るべきだ。

お墓などのモニュメントは、生きている人の為であり、死者にとっては何の意味もなさない。

良し悪しは別としてもう昔の風習や伝統は形骸化しつつある。

お墓の代行参りや納骨堂のマンション化等の動きを見れば解る。

あくまでも私見だが、形ばかりにこだわり、やった感でいる事より、本来古くから行われてきた事の意味をもう一度考えるべきだ。

亡くなった方はその人に関わった人達の意識の中にいる。

その事を心に焼き付ける為に儀式があり、モニュメントが必要だったに違いない。

祈る場所は何処ででも出来る。

心の中の話だからだ。

勿論モニュメントがある事で心が穏やかになるのなら否定はしない。

生前の言葉や行動を自身の糧とし、幸せと感じる力を身に付ける事が、亡くなった人が一番喜ぶ事では無いだろうか?

死後の事の為にお金を使うなら、生きている今に困っている人達に寄付したり、自分も含め誰かの幸せの為に使った方が良いと思う。

優しさや思いやりは連鎖する。

その源にあるのが亡くなった人達への想いであり、連鎖は生きている人達の中ででしか起きない。

いつ死ぬかは誰にも解らない。

言い換えれば生きている時間が全てだという事であり、先の見えない未来を心配しても仕方がないとも言える。

ホスピスに勤める方が亡くなる方の多くが、「やっておけばよかった」「時間を大切にしておきたかった」という言葉を残すという話を何処かで読んだが、誰もが後悔しない人生を望んでいる。

財産や死後の話などあまり出てこないとも書いてあった。

流れていく毎日は、その事に気付くチャンスを見逃しているのかもしれない。

 

 

令和4年度の11月までの自殺者数19.902人。

交通事故による死者数は、令和3年で2.636人(警視庁ホームページより)

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による死者数は2020年1月から累計で60.000人以上に上る。

以上の例の様に主に予期せぬ死を迎えた人達の数だけでも、これほどの命が奪われている。

数字に埋もれてしまった一人一人には人生があり、色々な出会いを経てきた人達だ。

誰でも生きてきた証を残しているのだ。

そして誰一人も本当は生きていたかったに違いない。

自分の歳を考え、例え不慮の死でなくとも、残り時間を照らし合わせて、亡くなられた方々と残された家族を思うと、胸が張り裂けそうになる。

 

日常で繰り返されるさり気ない別れ「行ってらっしゃい」「気を付けて」

もしかすると最後の言葉になるかもしれない。

思う事があれば、伝えたい言葉があるなら、口に出して後悔しないようにしたい。

あなたが望む様な人間でいただろうか?

あなたが理想とする人間に値する私でいただろうか?

あなたをちゃんと守れていただろうか?

あなたをしっかり受け止めていただろうか?

あなたの言葉を聞き逃してはいなかっただろうか?

あなたに愛される資格をちゃんと持っていただろうか?

あなたの心の中で永遠の命を持ち続ける事が出来るだろうか?

 

もしかしたらもっと大きな広い世界観であなたを包む事が出来たかもしれない。

日常のさり気ない場面をもっと幸せと感じられたかもしれない。

琴線(きんせん)に触れる言葉をもっと伝える事が出来たかもしれない。

 

たった一つの命と、片道の切符を手にした同士の出会いは奇跡だったから

 

宇宙的な時間の流れから考えても、人類の歴史は塵にも満たない。

そんな人類の過去など、大きな自然の流れの中では何の意味も持たないほど一瞬の出来事に過ぎないだろう。

そう、人生は一瞬であり、また刹那の連続なのだ。

それでも、私達は血を繋ぎ生き延びてきた。

それは亡き人達から授かった謙虚さと想像力の賜物があったからこそ。

 

kenpa.blue

 

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20221028152413

日本は何処に向かうのか?

年末に十代の若者達による「本音」について語り合う番組を見た。

自分の殻から抜け出せない、もしくは守りたい理由で本音では語れない子や本音で語り合う事で分かり合えるといった子達の話を聞いていたのだが、自分達の住んでいる日本に対する関わり合いの話から政治の話になると、意見が割れてしまった。

関心が無いというより自分の事で精一杯という子や夢を追いかけている中、関心が向けられないという発言の一方で、自分達の未来がかかっているからもっと政治に関心を持たないといけないという発言など、大人の私でさえ感心させられ、また考えさせられる番組だった。

 

私が彼らと同年代の頃の事を振り返ってみると、反省しきりで当時ただ流されていただけで、考えるのは異性の事や、TV番組、すぐ目の前のテストの事ぐらいで、政治の事なんて全く頭に無かった。

新年になり各局ともTVで成人式のニュースが流されたが、相変わらずの荒れた成人式を追いかけるマスコミにうんざりしたが、親に感謝の手紙を読む姿や晴れ着姿の若者を見るとこちらまで嬉しくなった。

 

そこでふと思ったのは、年末の政府の無茶ぶりだ。

国葬を始めとする、未だに福島原発の完全廃炉も見通しが立たない中、原子炉の運用年数を引き延ばし政策や、新たな原子炉増設計画。

敵基地攻撃は先制攻撃では無いという解釈も頭がおかしいとしか言いようがない。

例えば、近所に反社会的組織の家があるとして、何をされるか解らないから先に火をつけて燃やしてしまおうという事と同じ考えだ。

人間は必ずミスをする。

間違ってミサイルを発射したり、軌道をコントロールできなくなる可能性も「0」では無い。

近年、電磁波攻撃の影響が懸念されるようになってきているが、上空で核爆発させ電磁パルスEMP(ElectroMagnetic Pulse)を発生させる事で、電子機器を使用出来なくさせる戦術なのだが、そんな中民放で自衛隊の特殊車両や武器の紹介番組を見る機会があったが、「この砲は、全てが人力によるもので電磁波攻撃にも強いものです」とアナウンスされていたが、そんなもので遥か上空から飛んでくるミサイルに対して何も出来ないし、地上戦になった時点で情報が遮断されている可能性が高く、打つ方向さえ解らなくなってしまう可能性が高い。

何より上陸されてしまうと終わりなのだ。

まるでとんちんかんな事をTVはやっていると思いながら見ていた。

情報さえ他国と連携しなければ把握できない現状で、まして電子戦と言われるようなデジタルに強い人材もまだまだ少ない状態にもかかわらず、早急に防衛を検討すべきとか防衛費の大幅増額やそれによる国民負担問題と、訳が分からない事をやっている政府。

あれほど騒いだ宗教問題も徐々に影を潜め、宗教二世問題では救済法などの成立が早かったのは良かったが、まだまだ改善の余地があるのが現状だ。

安倍前総理を含め歴代の政治家や現役の政治家達との関係がどの様な影響をもたらしたか等の検証も全くと言っていいほど何もされていない。

政治家との関係や影響などの検証もせず、選挙が無い事をいい事にマスコミも含め与党、政府は頭がおかしくなったのかと言いたいぐらいにやりたい放題だ。

 

首相が安倍前首相に変わってから「改正教育基本法」「安保関連法」「労働者派遣法」の改悪、「原発輸出」等初期に成立した法だけでも、調べれば国民にとって非常に危険で不利益を被る法律や政策が、今日までいつの間にか成立執行されてきた。

余りにも議論を尽くしたとは程遠い与党のやり方には危険を感じる。

ウクライナや台湾問題に乗じて危機感を煽り、問題をすり替えている気がしてならない。

また今年になっての首相の外交を見ても、欧米諸国と足並みをそろえる発言や相手が喜ぶような話ばかりの首相に日本という国の独自の役割を忘れてしまった、もしくはご機嫌取りでしか見えない言動や行動には恐ろしくなってしまう。

日本国内に目を向けず、まるで国民の民意、全権を託されたかのような行動には寒気がする。

自由主義国のこの国で、民意を余りにも軽視している政権は、どこか歴史を撒き戻している気がしてならない。

アメリカは横浜にある繁華街にも近いノースドック(アメリカ軍の船舶係留地)に陸軍を配置し有事の際の兵站を担う人員配置を日本の合意の元決定したのだ。

陸軍という所が不気味であろう。

横浜市が早期返還を訴え、返還される予定であったこの場所はいずれ基地になり、攻撃目標になる可能性が高くなってしまった。

横田基地から国道16号で結ばれているノースドックは、有事や訓練等で16号線を封鎖する事も十分考えられる。

冒頭、若者達の話を書いたが、彼らにとって日本が平和であるという前提があっての話なのだ。

残念ながら番組の中では戦争や有事の話は無かったが、将来の夢や、希望、挫折も平和だからこそ味わえるもので、今のままだと非常に危うい状態だという事を、若者達に大人はもっと話すべきだ。

日本が戦争に巻き込まれる事が、いつの間にか戦争する事を前提に話が進んでいる。

日米地位協定の見直しもせずアメリカから高い兵器を買って、その裏で貧困に苦しんでいる国民がいる。

一体誰を守ろうとしているのか政治家達に聞きたいものだ。

少子化も含め、疲弊した経済が長く続いている事はもう何年も前から分かっていたはずなのに、有効な手立てを打ってこなかった政権の責任は重い。

首相の言動を見ても、今さら感が強いだけで全く他人事の様に聞こえるのは私だけだろうか。

食糧やエネルギー政策、温暖化、少子化も、ウクライナ戦争よりずっと前から問題にされてきた事だ。

 

議員数や報酬削減等も含め会計検査院の指摘で毎年の様に無駄な税金の使われ方がされているが、政府は「厳粛に受け止める」という発言だけで、一向に改めようとしない中で、国民に負担増を求めるのは、順序が逆ではないか。

日本を取り巻くアジア圏のみならず、世界中できな臭い動きがあるが、日本の役割をもう一度考え直す時かもしれない。

いや、今行動しないで何時やるのだろう?

 

一体この国は何処に向かっているのだろうか?

日々の営みが、さり気ない毎日がいつまでも続く事の素晴らしさに、政治家達はいつになったら気が付くのだろうか?

震災の時に皆が経験した事なのだ。

余りにも想像力が無さすぎる。

 

歴史や過去の教訓から学ばない者は、いずれ滅びる。

その時に責任を取らせても、もう遅い事ぐらい解りそうなものだ。

そして誰も責任を取らない。

ブログでも書いたが、日本はちょうど4枚のプレートの境目に位置している為、地震や火山噴火が多い国だ。

日本海溝・千鳥カムチャッカ海溝・伊豆小田原海溝・フィリピン海溝マリアナ海溝と海に目を向ければ、世界で最も深い海がすぐそばにある。

当然、プレートが沈み込んでいる為だが、改めて考えて見ると地理的にも非常に危険な位置に日本があるわけだ。

いつ大地震や火山噴火が起きてもおかしくない国だという事を政治家達はもう一度頭に叩き込んでもらいたい。

富士山も死火山では無いのだ。

そう、やらなければいけない事が沢山あり、危険極まりない場所に位置している日本に新たな原発増設を考える事の恐ろしさを、そして食糧問題や首都圏壊滅時の指令系統や国民の安全をどう守るか等、問題は山ほどあるのだ。

自然は時に恐ろしい脅威になり、その破壊力は想像を絶するもだ。

絶対神話であれほど安全性を強調してきた原発も、未だどうしようもない状態で放射性廃棄物をどんどん生み出している。

どれほどの専門家が安全だと言ったのか解らないが、今となっては後の祭りである。

人が作ったものに絶対は無いのだ。

それは阪神淡路大震災や3.11の大地震でも証明されている。

勿論歴史を紐解けば、その恐ろしさは歴然なのだ。

 

未だに変異を繰り返し、特に高齢者の死亡が増え、コロナウイルスCOV19は、日本だけで6万人以上もの命を奪っている。

ボーイング787旅客機が200回以上墜落している計算なのだ。

そう考えれば、一人の命と、人生、家族の想いは数では表せないはずだ。

2019年末に発生して今日に至るまで、自国でのワクチンすら開発出来ない国をどう見れば良いのか?

日本は先進国ではなかったのか?

今後、温暖化により凍土が溶けたり、両極の氷が解け、過去に封じ込まれていたウイルスが出現する事だってありうる話なのだ。

どうだろう?日本はそれら自然、人災を問わず災害に対して万全だろうか?

恐ろしく高い兵器を買う事や欧米のご機嫌取り前にやらなければいけない事は沢山あるのではないか。

 

もう一度周辺危機の話に戻るが、今政府がやろうとしている事が果たして日本の為になるのか、まだまだ議論すべきで早急に答えを出すべき問題では絶対に無い。

勿論、有事の危険性が高まっている事は承知している。

きな臭い近隣諸国の動きも戦争や軍事侵攻がいつ起きても不思議ではないが、だからと言って日本が戦争に繋がる様な道筋を考える事とは別にするべきだ。

賛否が分かれ事も承知しているが、利害が絡みエスカレートするのが権力者や政府であり、歴史を見れば明らかな事だ。

マスコミも過去の大戦のプロパガンダに加担した事を忘れてはならない。

マスコミ自身、腰抜け状態だという事を自覚してもらいたい。

 

当たり前だが、もし有事が起きれば生活は一変するだろう。

日本に住む外国人は2020年度で約290万人。

もし有事が起きたとして、敵対する国の在日外国人に政府はどのような処置をするのだろうか?

スパイ扱いにするのか?、強制送還でもするのか?はたまた先の大戦の様に収容所でも作るのであろうか?

ウイキペディア引用

 

敵対する国や、攻撃されている国に住む邦人の安全をどう守るのか?

民間企業に従事する社員達や日本に協力している外国の人達の命は?

アフガニスタンからのアメリカの撤退時の日本政府の対応を見ればお粗末と言わざるを得ない。

そうなのだ。私達は遠い直接的な問題では無いと考えがちだが、戦争が起きると一気に身近な問題として噴出するのだ。

その時点で考えてももう手遅れで、混乱を招き命が脅かされるのは目に見えている。

国内では近所に住む外国人がいきなり敵国の人達になるのである。

関東大震災時のデマによる朝鮮半島出身者に対するひどい仕打ち。

虐殺された「六千余名」という数字が「根拠が希薄な数」であるとして、都知事朝鮮人虐殺の追悼文を断っている事も付け加えておきたい。

ウイキペディア引用

 

過去を振り返れば解る事で、前頭葉では考えられない人達が必ず現れるのだ。

そして今一度想像力を搔き立てて当事者になるか、傍観するのか考えて見るといい。

だからこそ、過去から歴史から学び教訓として活かしていかなければならない。

普通の人達が考えられないような無残な狂気とも言える行動をさせてしまうのが戦争なのだ。

 

戦争体験者は必ず誰もが二度と戦争をしてはならない、こんな思いを次の世代にさせてはならないと言っている。

しかしほとんどがお亡くなりになってしまい、直接話を聞く機会もほぼ無くなってしまった現代。

義務教育でも近代史はほとんど深堀をしていない。

将来を担う若者達にとって戦争は実感も湧かないどころか、考えられない考えもしないのが現実だろう。

だからこそ大人が真剣にこのような問題に取り組むべきで、政権に対して頑として意志を伝えなければいけないのだ。

 

日本は欧米と足並みを揃えるだけがやれる事では無いし、そんな事ばかりをしていると逆に滑稽に見える。

大戦後の反省を踏まえて、世界に貢献してきた日本だからこそやれる、やらなければいけない事が沢山ある。

世界からの日本に対する貢献は、武器や攻撃を望んでいるのであろうか?

アメリカの一つの州にでも組み込まれているのかと疑うくらい言いなりになって、誇りは無いのだろうか?

憲法による恒久的な平和を謳っている事は諸外国も理解している。

ウクライナの大統領の日本に対する自国への支援(武器供与では無い)の感謝からも解るではないか。

この国に求められている事は正に平和外交、つまり話し合いによる解決の先頭に立つ事だ。

独裁者や強権者に対して何も出来ないし、やられっぱなしにされるとの懸念は確かにあるだろう。

が、だからと言って戦争に直接結びつくものでは無いし諦めず地道に官民での外交努力を怠らないようにする事だ。

年月をかけて築いてきた日本の信頼を活かさないで何の意味があるのだろうか?

ウイキペディア引用

 

国産ミサイル開発やトマホークミサイルを買うお金で、飢餓や貧困に直面している世界中の子供達に使う事の方がよっぽど理にかなっているし、人道的であり信頼も増す。

また唯一の被爆国であり、原子炉爆発による多大な被害を受けた国として、NPT=核拡散防止条約に加盟する事は当然な事で、核戦争の危機が増す今でこそチャンスであり欧米の顔色をうかがっている場合では無い。

世界の国々は日本の在り方に理解を示すであろうし、期待するだろう。

そして今の国連の在り方も日本が主導となり改革し、もっと力を発揮できる組織に変えていく事の方が、日本の国益にかなう。

戦争が始まれば終わりなのだ。

何もかもが変わり、多くの命と狂気が襲って来るだろう。

人間として生まれたのであれば、人間らしい行いを忘れてはいけない。

いつの世も愛が謳われ、命を救う名も無きヒーロー達がいた事が証明している。

平和であるからこそ、若者達は夢を描く事が出来、平凡でも幸せな時間が過ごせるのだ。

 

大人の責任は重い。

一人一人の決断が多くの命に関わる事を今一度考えてもらいたい。

そして、どんな事が有ろうとも日本人が外国人を殺してはいけないのだ。

いや人間同士が殺し合いをしてはいけないのだ。

何より今の日本の平和は戦争により沢山の犠牲者、命のお陰で得た尊い時間だという事を、そしてエネルギーや食品など多くの国により支えてもらっている事を、また災害で沢山の命が失われた事を子供や若者達に教え語り継いでもらうようにする事が、今を生きる大人の責任であり義務だと思う。

身近な人達からでも良いから考える時間を作り、日本の将来像を描いてもらいたい。

 

決して憎む為、恨む為に生れてきたのでは無いのだから。

 

日本国憲法 前文より抜粋

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 

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20221028152413

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

事故や災害に病気、犯罪や過失、そして戦争や紛争と、毎日の様に奪われていく数多くの命。

とりわけ生命に満ち溢れている幼い子や若者達の死は、心が張り裂ける。

残された者の心に浮かぶのは、まだまだやりきれていない人生への悔みや無力感に対する答えの出し方だ。

誰もが納得する答えなど持ち合わせていない。

ある人は神に問いただし、ある人は自責の念に取り憑かれ、ある人は思い出にすがる。

またある人は誰かを憎むだろう。

ただ、時間のみが救いになるだけ。

 

この世に生れ出たという事は、死ぬ為。

切り離す事は出来ず、一体だからだ。

コインの裏表と言っていいかもしれない。

放り投げ、手の甲に出る面で当てるゲームの様に、

何か大きな存在が、毎日繰り返しているのかもしれない。

もし裏が出れば全て終わる。

そう電気を消すように。

もう恐れる事も不安に思う事も

そして幸せも、愛も、自分をも感じる事は出来なくなる。

ただ塵となるだけ。

生と死の狭間の時間は、

常に苦との対話によって成り立っている。

誰にも介入できない自己との対話。

その選択は後追いの様に幸せを見せるか、

不幸をもたらすか誰にも判らない。

苦は生への賛美となるもので、

死を望んでは決していない。

むしろ、

生への執着と謳歌を引き寄せるモノだ。

 

才能が無い。

ついていけないかも。

バカにされる。

ムリに決まってる。

不安と心配。

 

キリがない。

止める理由の方が多くなる。

歳を取れば取るほどもっと理由が増えていく。

 

あれこれ理由を付けて先伸ばしするのなら、

いっそうの事やめればいい。

頭から追い出してしまう方がいい。

いつまでも考えない方が、違う方向に早く進める。

 

でも

片隅に少しでも残っているのなら、遅くはない。

みんな、そうして経験を積んでいく。

みんな、そうして変えていく。

そして…

若いと、大きく飛べる。

急な斜面も壁も登れる。

歳をとれば、ゆっくり、しかし確実に進める。

途中で休んでも、遠回りしても、また前に進む。

疲れたら、きっとあなたの手を引いてくれる人がいる。

後戻りはしない。

立ったままより、前に進むと景色が変わる。

知らなかった世界が広がり、見通しが良くなる。

色々な足跡を追うのも、足跡の無い道に行くのも、自由。

 

生を受け、歩き始めるその道は、平坦で道標がある道など始めから無い。

進む過程こそが答えそのもであり、だから歩き続ける意味がある。

愛する自身と誰かの為に。

勇気が荷を軽くするだろう。

諦め(あきら)は死を先取りするようなモノ。

諦めは愛すら殺す。

有限という避けられない死の為に生れた。

しかし生と死の狭間にある過程、時間こそが私達人間に与えられた宝物なのだ。

予期せぬことで、その宝物を手放さなければならない人がいる。

どんなに権力やお金を積んでも手に入らず、先延ばしも出来ない。

死者達がその気付きを授ける為、風を吹かし森を揺さぶり、雨を降らせ渇きを癒す。

陽が光と未来をもたらし、影が自戒と安息を与える。

過程という時間の大切さに彼らは黙ってはいられないのだ。

それほど愛おしい苦の時間だからだ。

 

誰でも一度は鳥の様に空を飛びたいと夢見た事があると思う。

勿論私もそうだったが、飛んでいる夢を見た次の日は決まって熱が出た。(笑)

それは別として、何故空を飛びたいか?。

それは自由だからだろうか。

鳥の様に広い空を、自由に生きたい場所や飛び回れるとしたら、そう考えるだけでもワクワクする。

動物園やペットショップに行くと、鳥たちがケージの中でジッとしている姿をよく見ると思うが、

彼らは飛び回る必要が無い。

敵もいなく捕食されず、食糧にも毎日ありつける。

けれども、大きな空をケージの網から見ることは出来ても、飛び回る事は二度と出来ない。

彼らはケージから出る事を望むのだろうか?

生れながらにケージの中で育った彼らの子供達は?

 

ケージの中では生と死の狭間が無い。

ただ生まれ、後は死を待つのみだからだ。

確かに人々の目を楽しめさせる事は出来るが、

彼らにとって何の意味があるのだろう。

 

外の世界では、いつも敵に狙われ飢餓に苦しむかもしれない

自然は厳しい苦の世界だからだ。

そう生きる事は苦の連続。

それでもケージが開け放たれると、彼らは飛んでいくだろう。

何故なら翼がそれを望むからだ。

多くの鳥たちが死に直面するだろう。

明日何が起きるか、死か、生き延びるか、

だが、大空を飛び回れる至福の時間を味わえる。

ぬるま湯のケージの中での生活からは決して得られない、

彼らの生と死の狭間。

飛ぶという彼らの本能は、例え瞬間に終わったとしても

何よりも代えがたい幸せの時間だからだ。

何よりも代えがたい自由がそこにある。

 

なぜ、生きなくてはいけないのか?

それは生まれたからだ。

生と死のわずかな時間に幸せが埋もれている。

苦と幸はどちらが欠けても成立しない。

苦ばかりと嘆くのは、幸を感じ取る力が足りないからだ。

陽が昇るのも、星がきらめくのも、

自然が見せる彩りも、決してあなたの為では無い。

けれども、生まれずしては決して見る事は出来ない。

生きているあなたにしか出来ない、あなたがそこに何を見出すかだ。

 

あなたの心の中には生まれながらに翼がある。

創造力と想像力の二枚の羽だ。

そこにはケージも取り巻く金網も無く

もしそれを感じているのなら、

自ら作り出している幻だ。

飛び立てば解る。

元々無かった事に。

過程を狭間を飛び回れ。

いつか翼は朽ちるのだ。

ならば、例え一瞬だとしても、

飛ぶ幸せを味わう事だ。

飛ばない言い訳は山ほどあるが

飛ぶ事自体に理由など無い。

何故ならそれが生そのものだからだ。

翼はある。

心の道標として。

そう飛べば解る。

飛び立てば解る。

 

教会にも寺院にも、そしてお墓にも

死者はそこにはいない。

死者は時を超え、形を変え、

そしてあなたに伝えたいのだ。

「後悔するな」

「それでも生きろ」

「生き抜け」と。

駐車場が家から少し離れた所にあり、街路樹や植え込みに囲まれた歩道を少し歩くのだが、植木屋さんの手入れが入っていないからか、丁度ほほのあたりに枝が張り出し、通るたびにほほを葉が撫でる。

最初は、うっとうしくて枝を折ってしまおうかと思ったが、ふと気付いた。

頬を撫でられるように触れる葉が、「今日も新しい一日だよ」とリセットしてくれている様に感じたのだ。

下ばかり見ながら歩いていた私に気付きを教えてくれている様で、何だか心が軽くなった。

いずれ剪定(せんてい)されるであろう枝葉に幸せを貰ったようだ。

それは手をそっと差出すように、温かい触感さえ感じさせてくれた。

 

何気ない日常に「気付き」が隠れている。

それは時に戒めであったり、幸せであったりと「気付き」が無ければ感じられない大切なもの。

 

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

それは生き抜く為。

生れず、また道半ばで命を無くした人、死者に対する最高の贈り物となる。

彼らはそれをもって報われるからだ。

 

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

それはこの世に遊びに来ているのだ。

危険を承知で遊ぶ為に。

思い出して欲しい。

幼い頃のはしゃぎまわっていた時を。

何も考えず、ただ夢中だったことを。

そして夕日が落ちれば、還るだけ。

月が昇れば眠りに落ちる。

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

たった一人でも幸せにする為。

そのたった一人が自分でも。

意味なんかそこには無い。

 

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

生きていないと味わえない

目に見えぬ細菌も

自然が織りなす色の移ろいも

果てしない宇宙も

まるでディナーのように

用意されている。

後は味わうだけ。

だって

席にもう座っているのだ。

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

苦を味わい死ぬ為だ。

死者は語るだろう

死後では苦も無く

幸も無い

ただもう少し時間が欲しかったと

 

子供の頃は夢を持てと言われ、

規則を守れ、はみ出すなと叱られて

大人になるにつれ個性を出せと言われ

諦める理由をいくつも並べられ、

どんどん小さな世界に可能性を押し込んでいた。

自分が嫌いで

惨めで

憎らしくて

でも死ぬ勇気もない

世界で一番不幸だって。

 

でも私より不幸な人はいっぱいいた。

死と真剣に向き合っている人達がいた。

真面目な奴も

不公平な奴も

優しい奴も

意地悪な奴も

みんな何故か生きている。

 

これからどんな人間になるかって

人任せじゃないかも知れない。

もしかしたら

生きてみなきゃ解らない。

 

死ぬのは一回きりだけど

やり直しなら何回も出来る。

生きてさえいたなら。

 

「なぜ生きなくちゃいけないのか?」

その質問の答えは、残念ながらありません。

あの世がどんな所か、還ってきた人がいないから聞く事も出来ません。

世界中の人達が今もその答えを探し続けています。

 

初めていく所や、初めて何かをする時は緊張するし楽しみでもあります。

「もしかしたら」と負の方向に考えてしまうかもしれません。

でも、何が起きても帰る場所があります。

故郷、町や家や、友人、愛する人の胸の中。

しかし「死」には、帰る場所が無いのです。

やがて塵となり、新たな命の元となるだけです。

もしかしたら、あなたは閉じこもっているかもしれませんし、自分の居場所が無いと感じているかもしれません。

例え孤独と感じていても、あなたは、生きている「あなた自身」という帰る家があります。

あなたが考えているより、あなたの心の中はとっても広いのです。

もしかしたら、気付いていないだけかもしれません。

この宇宙にも勝るくらいの広さを持っているのです。

今すぐでなくても、いつか必ず外に出たくなる時が来ます。

だから安心して出かけて下さい。

振り返った時、自分の心の広さを感じ取れるでしょう。

苦しくなったら、帰ればいいだけ。

その時は心の中を飛び回り、広さを感じて下さい。

前よりもっと、見渡せるようになっています。

何故なら、「勇気」という名の明かりを手に持っているからです。

いずれ召される時が必ず来ます。

その日が来るまで。

でも、あっという間なんですよ。

 

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20221028152413

生きる事は苦である⦅幸せの涙⦆(2)

最近、知り合いの訃報を聞きました。

彼は、私の妻と親しくして下さり、息子を川辺でのバーベキューや色々な所に連れ出してくれたりと、私自身お会いする事は無かったのですが、とてもお世話になった方でした。

2年ほど前に癌が見つかり既に転移しており、その時点でステージ4という辛い宣告をされ、以降手術や、放射線、辛い抗がん剤治療を続けながらも、妻に毎日SNSで冗談を言う様な優しい人柄の人でしたが、最近SNSの返事も無く心配していたところでの訃報でした。

私と同年代であり孫も含めて家族もいて、まだまだ働く事を望んでいた彼の事を思うと、さぞかし無念だったと思います。

それは、辛く苦しいのにも関わらず諦めずに治療を続けていた事からも想像できます。

心優しい人が、人生100年時代の中、若くして先立つのは不合理で、不公平と言わざるを得ませんが、彼がやってきた事は私達家族の幸せな時間として記憶に刻まれています。

私達の生活の中で彼は幸せの時間を見つけてくれた人であり、受け取った私達の心の中で生まれた誰かにも同じような楽しい想いをして欲しいという、幸せの種をまいてくれたのです。

そう、苦の中に潜んでいる幸せのおすそ分けと言ってもいいかもしれません。

それは、一人の人間の持つ大きな力の表れを示すもので、誰にでもその可能性を持っているものです。

いつ何が起きるか本当に解らないのが現実です。

病気や事故、災害、もしかしたら戦争が起きるかもしれません。

ニュースで見るそのような事も、別世界の話では無いのに、誰もが「自分には起きない」と考えているのです。

最新の家電に囲まれて、優越感に浸っていても病気で入院してしまえば意味がありません。

もし災害が起きれば、たちまちゴミとなってしまう可能性だってあるのです。

先祖や自身の死後の事を考え立派なお墓を立てても、生きている時間に幸せを感じる事が無ければ、何の為に生れたのか解らなくなってしまいますし、何よりご先祖様が喜ぶはずがありません。

いくつもの時計や靴やカバンを持っていても、体は一つで、手や足はそれぞれ二本しか無いのです。

勿論、全てが悪いとは書いていません。

自分に対する御褒美かもしれませんし、頑張った結果得られたものでもあるからです。

けれども、それは所有した時こそ満足感や喜びがあるとしても、ずっと続く訳では無いのです。

景色の良いタワーマンションでも、何日か住めば当たり前の景色にになるだけで、後は来客者に対しての優越感ぐらいでしょうか。

もう一つ、比較するという誰もがやる事ですが、「歳の割には若く見える」「ルックスに自信がある」「仕事が早い」これらは比較対象がいないと感じる事が出来ない幸せ感です。

もし、それが幸せというなら、本人がそう思うならそれはそれで良いとは思いますし、生きる事の楽しみになっているのも事実で全てが悪い事では無いでしょう。

が、前述した幸せ感はいつまでも続くものでは無く、対象となるものが変わる様な環境の変化や逆にそれが当たり前になってしまった時、心の状態ですぐ失ってしまうモノで、いわば人工的に作られた幸せ感とも言えます。

 

前回「欲」や「比較」が更に苦を作り出す原因になっていると書きました。

ただ、人間は欲や比較がある事で希望や夢を叶えたりする一面もあります。

欲を全部否定しろとは書いていません。

例えば病気などで使われる薬は、当たり前ですが病気などを治す為に使われます。

ただ、薬の効き目がずっと続くと生命まで危ぶむ様な状態になってしまいますが、肝臓が薬を無害にしてくれるからこそ、薬を使えるのです。

薬は毒と同じだという事です。

そう欲や比較も同じように両面があって、使い方を誤れば毒になってしまうのです。

処方箋の役割になるのが、幸せの気付きという事です

当たり前ですが、幸せはお金では買えません。

とは言っても私ですら、目の前に大金があると幸せな気分になるでしょうし、借金の返済や、やりたい事が実現できると心が軽くなるでしょう。

「幸せはお金では買えない」それは誰でもいつか気が付く事ですが、現実はお金が無いとどうしようもない世の中で、自給自足でもしない限り必ず必要なものであり、綺麗ごとでは生きていけないのも確かです。

でもそれは幸せの為と勘違いしているだけかもしれないのです。

幸せと幸せ感は似ているようで、中身は全然違うものです。

もしお金で衣食住が豊かになったとしても、老後の心配が無くなったとしても比較によって得られた幸せ感の満足できる時間は続かず、持ち続ける事が目的になってしまう事と更に上を目指そうとする欲でキリがないのです。

執着心や比較、所有欲は、逆に囲い込む感情が生まれ、手放す事や無くなる事への恐れを生み出していきます。

すなわち「幸せ感」は現状の持続を前提としている為、肝心の幸せを感じる事より、持続が目的となってしまう所に大きな勘違いが生じてしまうのです。

 

もう一つ考えて欲しい事があります。

死後に地獄も天国もありません。

宗教などが死の先にある世界観を作り出しているのは、戒めであり生きている者に対してのものです。

ましてお金によって左右されるような事はありえないのです。

どんなに献金しても、立派な仏壇やお墓を建てても、心が静まる事は無いでしょう。

何故なら生きている事を忘れ、死んでいるのと同じだからです。

そう、生きている時こそ天国と地獄があり、それと向き合わず死後にそのツケを回しているという、滑稽な事をやっているのです。

あなたに幸せを感じられる時間を味わってもらう事が、何より死者達が望んでいる事であり、いずれあなたもそれを受け継ぐ時「死」が来るのです。

ウイキペディア引用(さとるる - 投稿者自身による著作物)

池袋での高齢者運転暴走事故で、奥様とお子さんを亡くされた被害者の男性の方が判決後に今後の上告の質問に対する中でのご発言で、相手に事実を認めてもらいたい事と出来るならこれ以上争いをしたくないという心情をお話しされ

「争い続ける私というのは二人(亡くなった奥様とお子さん)が愛した私では無いから」とおっしゃられていました。(注)

それは、愛し愛されていた家族であったからこその言葉で、亡くなった二人の想い、望みが遺族の方の心の中でちゃんと生きていらっしゃるからこその言葉だと思うのです。

永遠の命と言ってもいいかもしれません。

 

「幸せ」は内なる人間らしさが生み出す有限である事の気付きから感じるものです。

幸せは作れるモノでも無く、格差を生み出したり計れたり、まして比較し数を競うモノでもありません。

それは誰かのマネでも無く自身でしか感じられない奇跡の瞬間なのです。

心に流れる暖かい涙なのです。

子供達の笑顔や、一生懸命に生きようとしているその姿を見ている時の様に。

すなわち苦の中でしか生まれ出てこない、刹那と人間らしさが作り出す涙です。

心の隅々まで染み渡り、人生の瞬間を潤してくれるあなたの涙なのです。

これ以上も以下もありません。

「生」瞬間が全てなのです。

生きている中で幸せは沢山隠れています。

感じ取れるのは自身だけです。

雨が降っていると「うっとうしい」と思う事も出来ますが「緑が喜んでいるかも」とも取れます。

雨が降らないと虹を見る事も出来ません。

満員電車に揺られ、溜まった仕事の事を嫌々考えていたとしても、当たり前のように帰る家がある事だって幸せな事です。

苦を生み出す「想像力」の別の一面である賜物とも言えるでしょう。

そう考えて見ると、苦もまた幸せの元になるのです。

 

もう一つ大切な事があります。

誰でも歳をとりますが、その積み重ねで出てくるあなた自身の言葉は、どんな言葉でしょうか?

その経験からくる優しさや思いやりに溢れている言葉だとしたら、苦もまた報われるでしょう。

誰かをあなたの言葉で幸せにしてあげられると、何より自身が幸せに感じるからです。

共感とか共鳴という人間が持っている素晴らしい能力だからです。

発する言葉はウソをつきませんし、ウソだって事は解るものです。

何故ならあなた自身が気付かずとも無意識の心持を表すからです。

心に耳を傾ければ自身が一番分かっているはずです。

尊敬できる人達の言葉には重みと優しさに溢れています。

耳も相手の話をよく聞く為に、そして音楽や自然の移ろいの音を聞く為に使う様にして欲しいのです。

目は、嫌なものを見る為だけではありません。

大切な人の瞬間を記憶し、芸術や本、豊かな大きな自然を見る為の時間に使って下さい。

普段の生活の中では、なかなか気付きにくい、新たな発見や流れが変わる事だってあるのです。

ヘッドフォンをし、スマートフォンを見ながら下を向いて歩いている時、上を見れば空は青く深く、もしくは星々が輝いて、あなたが存在している事の意味を全て教えてくれています。

そして何より人との出会いが大切な要素でしょう。

どんな素敵な人と出会う事になっても、あなたに準備が出来ていなければその機会を逃してしまう事になります。

準備とは、賢いとか付き合いが上手い、話が面白いというような事では無く、まず自分の考えを素直に話せる状態の事です。

その為に話術テクニックの勉強をしろとか磨け、本を沢山読めとは言っていません。

自分の言葉で話すという事です。

誰かの受け売りをしたり、核心に至るまでお茶を濁したり、虚栄心を張るような事をしない事です。

 

私の妻は何度も書いていますがフィリピン人、すなわち外国人です。

彼女はパートで働いていますが、長年日本にいると言ってもまだまだ日本語、特にニュースで流れる様な難しい言葉は理解できていない様ですし、難しい表現の日本語を話す事は出来ませんが、仕事仲間や友人達からよく相談されます。

私が日本人なのでよく解るのですが、同じ日本人だと何処かで気構えてしまい、相手と釣り合っているのか?とか馬鹿にされるかも?こんな話をして、相手にあれこれ知られるのは嫌と思いがちですが、外国人相手だと全てとは言えませんが不思議とそんな気持ちにはなりません。

妻の例でいうと、彼女は自分をさらけ出す事に抵抗感が無いようで、遠回しに遠慮がちに話される事を嫌います。

言葉が上手く見つけられない時には必死で迂回して話します。

皆がみんな、その様な人格になれるわけではありませんが、彼女を傍で見ている私には大変参考になる存在です。

人との関りは、面倒である側面を持ってはいますが、人生の中では重要な要素である事には変わりありません。

だからこそ、誰かの心の片隅にでも残る様な人間でありたいものです。

その心構えが知らぬ間に幸せを呼び寄せるのかもしれません。

相手の心を変えようとする事より、自身と向き合い、常に問い続ける事で良い連鎖が生まれてきます。

 

普段当たり前と思っているだけで、実はその当たり前の中に幸せが隠れている事の方が多いのです。

ただ何か事が起きてからでないと気付かないもので、その時は、残念ながら後悔ばかりになってしまうでしょう。

そう、時間は遡る事も止める事も出来ない私達に与えられた、かけがえのない贈り物だからです。

 

有限、すなわち必ず死に、不完全であるからこそ幸せが輝くのです。

それは手に持つ事も、所有する事も出来ない一瞬の涙です。

このブログ「心は何処にあるの?」でも書きましたが、心は感覚なのです。

偏った見方や偏見も、そして不幸感も感覚が鈍くなっているせいです。

幸せを見逃さない様に、心を磨いておきましょう。

私達は何の為に生れたのか?

心配の種を撒く為でしょうか?

欲を実現させる為だけでしょうか?

誰かを傷つけ、優越感を得る為でしょうか?

言い訳ばかり、妥協しながら生きる為でしょうか?

それも、短い大切な時間を使ってでもやらなければいけない事でしょうか?

 

私の妻がいつも言っている言葉、

『レット イット ビー「Let it be」』『ケセラ セラ「Que Será, Será」』

彼女のその言葉に、私は何度も助けられました。

苦しい時にはまず「あるがまま」「何とかなる」と自分に言い聞かせましょう。

一呼吸おいて、そして大きく深呼吸してみて下さい。

小さくとも輝いている「幸せ」を感じる為に。

そして、幸せの涙が流れますように。

 

 

(注)切り取りの印象になってしまう可能性もありますから、ユーチューブで全編も見られますので、「池袋プリウス暴走事故裁判後で被害者遺族の夫の言葉」で検索し確認して下さい。

 

kenpa.blue

 

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20221028152413

生きる事は「苦」である(1)

なぜ今の人類の進化は個々に自我という高度な意識を持たせ、「心」という概念を作り出したのか?

そして「心」が生み出す様々な雑念や煩悩(仏教でいう所の自分自身を苦しめる心の事)を持つ羽目になったのか?

アダムが蛇にそそのかされ果実を食べたから?

勿論それで納得できる事ではありません。

何度もこのブログで書いている様に、人生は「苦」であるという事が前提になっています。

他の動物の思考は本能による行動が主になりますが、人間は本能だけで行動している訳ではありません。

誕生以来、敵や狩りをする時に感情を高ぶらせたり、恐怖や驚きが結果身を守る事になったりと、衣食住や集団生活する上での問題に対処する為に必要不可欠な「怒り」「嫌悪」「恐怖」「悲しみ」「驚き」という原始的な感情が生まれました。

個人という概念が生まれ、その表情や仕草で他人の心の動きを図る能力も発達していきました。

そして前頭葉が発達して今の私達の様に複雑な感情や思考が出来る様になっていくのですが、備わった能力のお陰で、言葉や文字によって過去の言葉や教えを学べ、後世に残せる様になりました。

これは自ら経験することなく、失敗や危険、その他衣食住に関する知識を得る事が出来るという事で、代々子孫に受け継がれ、より豊かに暮らせるようになっていったのです。

人間の一つの能力として「想像力」があります。

経験する前にあらかじめ可能性を考慮出来る力とも言えるかもしれません。

その様な能力を持った事が「苦」の始まりにもなったのです。

何故なら、本能だけであればその場だけの対応だけで終わるのですが、過去の出来事や未来に起きるであろう予測が結局、選択肢を増やす事になってしまったのです。

加えて価値観が生まれ、不安材料も同時に増えてしまったのです。

例えば、将来の為にお金を貯める事や、老後の資金調達や健康に気を付けたりと、仕方がありませんが心配ばかりしてしまうのです。

特に歳を重ねれば重ねるほど現実味を帯び、その影響は大きくなり備えをするといった想像力による「もしかしたら?」という心配の種がどんどん増えていきます。

また実生活でも快適性を必要以上に求めたり、良い暮らしというTVを始めとする媒体からの押し付けに踊らされて必要以上に買い込み、押し入れで眠ったままって事は、よくある話です。

それと並行して権力や優劣、序列が社会や宗教の中に生れ、富を蓄えたり自己の野望を満たしたりする者が現れ、一方で搾取される者との開きも大きくなっていきました。

欲や権力という力を一度手にしたものは、それを手放そうとはしません。

権威主義や独裁者というマクロだけの話ではなく、普段の日常の中でも起きている事です。

会社や学校、組織など、人が集まると起きてしまう事です。

持った力と引き換えに守る為の心配事が増え「苦」となるのです。

自分を大きく見せたり、知識があると装ったりと何処の社会にもそんな人達はいます。

彼らは、それを守る為に自ら必要のないものを背負い込んで「苦」を増やしているのです。

結果、その責任を誰かに押し付ける事で身を守ろうとしていますが、言い方を変えると、可愛そうな人達です。

自分に対し「苦」をさらに増やしているからです。

 

結局、私達は手にするものが多くなり、その欲求を満たす為更に手を出す事の繰り返しのループにハマってしまったのです。

これが「苦」の元になってしまったのです。

勿論、「死」の概念も単純に朽ちり、塵となるという当たり前の考え方から、生きる事は死を伴うもので、死という得体のしれないモノが最後に必ずやってくるという恐れと、天国や地獄などといった死後の世界まで持ち込んだ訳ですから、「苦」はますます増えてしまったのです。

そして輪をかけたのが「悪魔」「サタン」「閻魔」という存在です。

すなわち自己に起因するもが悪魔たちによるものだというすり替えの論理です。

明確な敵の出現により、呪われ、血を汚され、代々に引き継がれていくという恐れや不安が、天国や地獄という概念と結びつき、益々「苦」を呼び寄せたのです。

そうやって人間は「苦」をせっせと呼び寄せ、積み上げているとも言えるでしょう。

(誤解のない様に書きますが、宗教自体を否定している訳ではありません)

では何故そこまでしても人間は「苦」の要因を作り続けているのか?

それは、「有限」だからです。

私達が無限と感じられる宇宙に惹かれる様に、また魂や永遠の命、輪廻転生などの言葉に惹かれるのは、有限という、ある一定期間でしか存在を許されていないところから始まっているのです。

だから、日々の生活を快適にしようとしたり、子々孫々に財産を残す為に、人は動くのです。

自然界においても、全て有限であり、無限なものはありません。

すなわち限られた時間の中、限られた資源を追い求めているからです。

このブログでも書きましたが、時間の概念は人間が誕生してからのもので、それまでは無かったのです。

一秒という世界すら、自然界においては存在しませんでした。

時間という概念が生まれた時点から、時間に追われ時間の無さに嘆く羽目に陥ったのです。

他の生物にとって時間は何も意味をなさないものです。

与えられた生と子孫を残し、死を迎えるだけで余計なものを背負い込んではいません。

人間から見ると弱肉強食の世界にいる彼らに、自らを当てはめ「可哀そう」「命って大切」「生きる事って大変だ」と見えているだけで、彼ら生物からするとは淡々と物事が進んでいるだけに過ぎません。

だからと言って、私達人間に当てはめる事も納得できる訳でも無く、受け入れる事も出来ないでしょう。

もう一つの要因が「不完全」なのです。

何をもって「完全」と言えるかは、解釈の違いもあり難しい所でもありますが、生物としてほぼ完ぺきなのはゴキブリで、彼らのあのグロテスクな形は、遥か昔から変わらず、いわば究極の体を持つ生物です。

勿論エイリアンとの遭遇があり、人間が究極の形になるかどうかは解らないですが…。

余談になりなしたが「不完全」という事は、心身共に欠陥があるという事です。

ある人は神が完全なモノと解釈していますし、悟った者として仏陀を挙げる人もいるでしょう。

また「死」が有るのか無いのかによっても観念が変わってくる事で一概には言えませんが、不完全であるという事は、完全に近づきたいという欲求があり、誰もが完璧になれない事は解っていますが、それに近づく為様々な欲求が生まれます。

「若く見られたい」「トップに立ちたい」「支配したい」「皆と同じがいい」と人それぞれですが、不完全であるという潜在意識がその様な欲求を引き起こしています。

巷にあふれるハウツー本でも「完璧になる必要は無い」とか「完璧な人はいない」「完璧主義はダメ」といったテーマをよく取り扱っている事からも解ります。

価値も欲もそうやって「苦」を生み出しているのです。

一般的に仕事や勉強、生活の中で色々な問題が起き、それを苦痛と感じる事も「苦」の一つになるでしょう。

持って生まれた「苦」とは違い厄介なモノで、苦の先に達成するものや楽しい事があると、その様な苦も乗り越えやすくなりますが、その先の目標が無い、見えてこない場合は精神的にも辛い時間を過さなくてならなくなります。

生活費や教育費といった避けられないお金の問題も頭を悩ます事でしょう。

これもまた、背負い込む事になるのですが、残念ながら「何とかなる」という考えには中々至りません。

ただ実際には、日本国籍を持っていれば制度を利用して選択肢は限られ、最低限ではありますが、何とかなるのは、なるのですが。

そうは言っても、人間は今までの生活水準を下げる事は嫌ですし、勇気がいります。

 

「心」はそう考えて見ると厄介なものです。

まず、生きる事の前提として苦である事を今一度心に留めておいて欲しいのです。

そしてその苦は自ら作り出している事が多いという事。

そして価値観を変えない限り、何も変わらないという事。

欲は際限なく襲って来るもので、より欲求を満たす為に刺激が強いものにと手を伸ばしてしまうという事。

心は流動して一時もジッとはしてはいなく、欲を制御する事は難しくて手に入れたモノは手放さない、手放したく無いという事。

自分はこんな人間だと決めつけてしまいがちな事

 

当たり前ですが、死をもって全てが終わり、何も持っては行けずただ塵となるだけです。

 

「楽は苦の元、苦は楽の元」とよく言われますが、実際には「楽は苦の中、苦は楽伴わず」と言えるかもしれません。

では、「苦」をなるべく遠ざけたいと考えると、出家でもしない限りはムリと考えるかもしれません。

ならば、どうせ初めから苦の中にいるのですから、幸せを見い出す事の方が賢明かもしれません。

そして自ら生み出す価値や欲は反面、生きる希望や力になる側面を持っています。

「努力は報われる」「夢を持ち続けろ」という様な言葉の裏には、必ず価値や欲があるからです。

一方で苦を生み、一方で生きる原動力にもなっている私達。

「苦」に意味があり、そこから何を得るか?

そんな中で、垣間見せる「幸せ」にこそヒントがあります。

 

生きる事は「苦」である(2)に続く

 

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20221028152413

 

 

誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆基準となるもの(7)

人間としての個々の存在の意味は、多様性に他ならないのです。

前記事に書いた人間の武器とも言える「脳」

多用な考え方や、発見、知ろうとする好奇心や未来に対する想像力など、多くあればあるほど選択肢も増え、言い換えれば進化と同じ理屈になるのです。

もし独裁者や権力者の思考だけを頼りに生き延びようとしても、いずれは滅びてしまいます。

それは人物だけでなく、体制(政治や法など)や宗教にも言える事です。

それは自然の摂理であり、歴史を見れば明らかです。

そして遥か昔から権力や富の為に犠牲になった人達の存在は、その事実を知る事で無駄にはならないという事です。

すなわち、個々が自分なりの思考で過去から学び咀嚼(そしゃく)し、今を生き、経験を積んで次の世代に引き継いでいく為に、私達は存在しているのです。

ですから個々の思考停止が、無関心がどれほどマイナスになるか、よく考えなくてはいけません。

自分だけでなく、周りの人達や子孫にも影響を与えるからです。

「芯」「善」は自身との葛藤の中から獲得するものです。

誰かの受け売りや、偉人達の言葉からは得られない、経験とそれによる失敗の中から見つけ出す力の事です。

 

しかし「芯」となるモノをしっかりと確立する事はとても難しい事でもあります。

若気の至りという言葉がある様に、経験不足が招く間違った思い込みや、自らの存在を否定している時、取り巻く環境が劣悪ないしは過酷である時や、日々の生活に追われ金銭的な事や不幸が続くとそれどころでは無いかも知れません。

加えて大勢(たいせい)の動きに自分も知らず知らずに巻き込まれる事だってあります。

ただ、歴史はちゃんとそれに対し答えを出しています。

いつの世でも過酷な環境や差別、虐げられ疎(うと)まれた人達の中に必ず「芯」を持ち行動してきた人達がいたという事実です。

 

個々の色々な考え、知恵を出し合い集約し危機を乗り越える。

個々の存在、多様性が必要であり、それが人間という動物の位置づけなのです。

「芯」「善」となるモノが心の目となり、「正義」と「悪」を見極める基準となっていきます。

 

どうすれば「芯」となるモノ、この場合「人としての道」の事としますが、持ち続ける事が出来るでしょうか?

まず答えは残念ながら「無理」という事です

書いてきたように「心」は揺らぐという前提があります。

ですから、時にその揺らぎを正す為に宗教に、指導者にその揺らぎを確信へと変える力を求めている人達がいるのです。

ただ難しくさせているのは、その宗教や指導者自体の「芯」に対する考え方が間違っている可能性が多くある事です。

十字軍や宣教師、そして今問題になっている宗教団体や政党基盤の宗教まで、前述した「価値」によって本来の「教え」「本質」から外れたり逸脱してしまったりしている事が、多くの問題を逆に作り出している現状となっています。

ネットの世界でも、同じ宗教であっても解釈の仕方が違い、様々な正義や悪の定義が見受けられます。

仏陀を含め、マスターと呼ばれる人達は、自らの手で「教え」を書き残していません。

ただ、弟子たちが書き残したモノから、マスター達の教えを紐解く事が出来るだけです。

現代において、彼らの言葉、教えは本来の教えかどうかは解らないのです。

色々な宗派に別れいった事からもその事を証明しているのです。

今も世界中の何処かで繰り返されている戦争や紛争の多くが、宗教問題を発端として起きている事をみれば解るはずです。

 

戦争といった有事の際には、例え、自分なりの「芯」「信念」を持ち「正義」を確信していたとしても判断が難しくなるのは目に見えています。

大義、この場合国家・君主に対して国民のとるべき道といった理由をもって参加し、戦うのか、人間として行動するのかその判断が出来る状態とは言えない状況になってしまうからです。

普通の人間が極限状態の中で起こす行動は残酷で、卑劣な行為に走らせてしまう事が、過去の例を見ても解ります。

ですから、そもそも絶対に戦争をしてはいけないのです。

ゲーム、TVや映画で見る戦争からは想像も出来ない事実が裏にあるという事を考えなくてはいけません。

 

「芯」が無いと、もしくは本質からそれた「芯」を正しいモノとしている限り、「正義」は人類の為という名目だけのただの自己満足に終わってしまうのです。

「悪」は、正しいと信じている「正義」といつも隣り合わせで語られる為、宗教によってその意味も概念も大きく変わるのです。

それは宗教だけでなく、独裁者や崇拝者の「価値」の概念でも大きく変わってしまいます。

 

「告解(こっかい)」「懺悔(ざんげ)」という言葉を知っていると思いますが、キリスト教だけでなく色々な宗教にもある、犯してきた罪を告白し許しを請う事を指すのですが、日常生活の中でも自分に対して誰もが同じような事を繰り返しています。

「あんなことを言わなければ良かった」「あの時助けてさえあげれば」「信じてあげれば良かった」その様な事を繰り返しながら私達は生きています。

その時の心の動きを思い出してみて下さい。

多くの人が「自分にされて嫌な事は他人にもしてはいけない」という戒めや、「困った時はお互い様」という人間らしさが、心の中にあるはずですし、無ければ懺悔も不要でしょうし、人類は滅びるでしょう。

例え「告解」や「懺悔」をやったとしても、それで許されるものでも、無かった事にする事も出来ません。

が、経験として積まれていき、過去の自分よりも成長しているのです。

いや、成長しなければ、学ばなければ意味が無くなってしまうのです。

すなわち、同じ過ちを繰り返さないという教訓の事です。

 

「芯」を持ち続ける事はムリだとしても、ブレ幅を出来る限り少なくすれば良いとも言えます。

報復や償いを恐れ「道」からそれない様にとするなら、それはただの形だけで本質は何も変わってはいません。

「地獄に落とされる」「悪霊が取り付いている」「天国に行きたい」このような言葉が無くならないのは対価という考え方でしかありません。

「善行を施したから天国に行ける」「悪い事をしてきたから地獄に堕ちる」「これだけ祈っているのだから必ず助けてもらえる」これらも全て、何かの対価、見返りを求めての考えであるのに変わりありません。

お布施にしても寄付にしても、教祖や団体の為にするのではなく、本来マスター達が伝えたかった事は、「手放しなさい」という意味です。

持っている色々なモノや心、それは善悪関係なく手放す事で真理に近づく事が出来ますよと説いているのです。

人間は持つことは出来ても手放す事は中々出来ません。

だから、手放さなければならないのです。

自分がどの様な「芯」もって「正義」「悪」と判断しているのか?今一度振り返る必要があるのです。

心の動きから考えて見ると解りやすいと思いますが、例えば正義と信ずる思考やそれに伴う行動時の自分がどの様な心持で判断しているかという事です。

その時、今を生きている事に奇跡のごとく考え感謝している状態であれば、あなたが正義として考え、行動する事は正に「正義」と言えるでしょう。

そして迷いがあっても、あなたの「正義」が成された時、自分自身と相手に笑みが浮かぶ事になれば、心に温かいものが流れればそれは「善」であり「正義」が成されたと言えるのです。

結局、個々の「善」の広がりに関与する事が、私達人間一人一人に与えられた使命であり、その積み重ねとうねりが「正義」を作り出し、価値や権力を持つ数少ない者達に決断を委ねない、させない事になるのです。

 

正義と悪の本質は、実は誰にも解らない事なのです。

正義や悪は割り切れるモノでも無く、その境界線すらありません。

西洋では古くは「神の審判」として決闘という形での殺人が許容され、名誉の為としての位置づけと変わりながらその歴史は長く続いたのです。


敵討 (新潮文庫)

私の好きな作家、吉村昭『敵討』『最後の仇討』でも出てくる、いわゆる敵討ちという殺人。

江戸時代を中心に多く行われていたが、(成功率は数%だった)これもルールを守れば個人でも制裁が出来るお墨付きの殺人で、その行為に共感する者も多かったのですが、これも当時では「正義」が行われたという事になるのです。

国家による殺人の死刑制度も戦争も「正義」を貫くと信じて人類は行っています。

原爆一つとっても、肯定派は「早く戦争が終結した」と思っているだろうし、力のバランスとして必要不可欠と考えているでしょう。

反面、広島や長崎に落とされた原爆はまさに大量虐殺であり無差別攻撃で、許されるものでは無いのです。

使用されれば、人類にとって最悪のシナリオになる事は間違いありません。

また歴史が示すように、過去英雄と呼ばれる人達や冒険者達が正義を行ってきたか?

答えはNOです。

よく日本では戦国武将の言葉を引用し、ビジネスや生き方として活かそうとしますが、必ずしも「正義」の裏打ちがあるわけでも無く、彼らの言葉が正しいとは言い切れません。

権力、自国や民族、宗教サイドで見る正義と、侵略され、略奪された側から見る正義は全く違うものになるからです。

でも、大勢において正義が成されたとしても、個人個人の中では疑問に思う人達が出て来て、「正義とは?」「これでいいのか?」という問いを投げかけるのです。

その様な人達、歴史では命を懸けてでも信念を貫き通した人達が沢山いました。

その勇気ある人達の存在があってこそ、私達は今ここにいるのです。

 

自然の中ではその定義すらありません。

何か大きな存在が、人の中に心を持たせ、この星の為に今を生きる人達全員で「その本質に迫れ」という宿題を出しているのかも知れません。

「この世に価値の無いものは存在しません」と書きました。

それは「頂きます」「ご馳走さま」の言葉どおり、生き物に対してのありがたみや感謝であり、価値があるからこそ私達は生存できています。

微生物はもとよりこの地球上の全てのもの、そして宇宙全体にも言える事で、絶妙なバランスの元、私達の存在が許されています。

しかも、そのバランスは宇宙という途方もない時間で保たれている繊細なモノです。

しかし、壊れる瞬間は、人類にとってアッという間に起きるのです。

宇宙から見れば人が決めた正義(善)や悪など、どうでもいいくらいのちっぽけなものです。

しかし塵の様な存在である人類が存在できるのは、今生きている個々の人達の未来に対する選択です。

人類にとって良い方向へと舵を切る為には、個人個人が考え、意見を出し合い、間違いを正す事でしか、方法は無いのです。

決して今起きている不合理な事を傍観する事なく、自分の事として考える事です。

何故なら、明日何が起きるか解らない中、自分の身の回りに起きる可能性は決して0では無いからです。

人間が人間らしく生きる事を今一度考え、子供達に繋いでいかなくてはいけないのです。

塵の様なちっぽけな人間の存在だからこそ、価値の有るモノにしなくてはいけないのでしょう。

 

いずれにせよ「正義」と「悪」を一方向から見る事だけはしたくないものです

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆その本質(6)

前回で自然の中には「正義(善)と悪」は存在せず、そして人間だけがそれらを決めつける事をしていると、そしてその根源にあるモノは「価値」と書きました。

人間が誕生して以来、自分達にとって価値の有る無しを決め続けながら今日に至るのです。

生きる上で大切な水や塩、食べ物の重要性と価値は残念ながら、現代では同列で考える事は出来ません。

すなわち価値は人間だけが、生き延びるという本来の目的以外にも優劣を、序列のレッテルを貼る為に作り出しているモノで、この世に価値の無いものは存在しませんし、そもそも価値にランク付けするものではありません。

 

石ころから大きな岩、木々や花、昆虫やウイルスから細菌、微生物からゾウや魚に至る全ての物は自然が必要とし、可能性を与え続けた結果そのものだからです。

自然が作り出した人間も例外では無いはずです。

何故ならこの星の住民の一人として迎えられているからです。

そしてそこには意味があり、すべきことがあるからです。

大きな自然の法則の中では、全ての物にその意味、価値があり、いらないものなど無いのです。

 

鳥のフクロウは、羽音もなく飛べます。それを応用して新幹線のパンタグラフ(架線から集電する屋根についている装置)の形状に活かしたという話もあります。

蛾の鱗粉(りんぷん・羽などの表面を覆っているうろこの様なもの)は捕食者、コウモリの超音波に感知されないステルス機能がある事や、以前も取り上げた人間の目に見えない波長の光を、見たり感知できたりする昆虫や爬虫類。

蜘蛛の糸の強靭性や見る角度によって変わる金属光沢の様な表面を持つ玉虫等、キリがないくらい自然が創り出したモノには人間の能力をはるかに超えているものが多く存在しています。

それらの能力は捕食されない為や捕食の為に備わった、すなわち「種」の継続の為です。

一度に数百も子供を生み出す事も出来ず、生まれてもすぐに立ち上がる事も食物を得る事も出来ず、皮膚というすぐに傷つく外観も、食物連鎖の中では非常に不利であるにも関わらず、人間がここまで繫栄してきたのは脳の発達です。

仮にこの星で生きていく中で人類という種の繁栄と食物連鎖の一部だけとしたら、個々の存在の意味は無い事になってしまいます。

個体として人間の遺伝子が残れさえすればよい事で、個人を重視する必要など無いからです。

(関連記事「人間、生物は、なぜ存在しているのか?⦅牛や豚の命は⦆1~3」もご覧下さい)

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実際、愚かな人間はそれをやってきましたし、また現在進行形の事でもあります。

民族の大量虐殺や、宗教の名の元で繰り広げられる紛争、人種差別の様な恥ずべき出来事が如実にその事を表しています。

 

すなわち、人間は人類というひとくくりの動物というだけでなく、個々の思考や行動にも大きな意味があるモノとし、個々の考えや行動が人類という種族に大きく影響を及ぼしていると捉える事が出来ます。

一方でたった一人の行動や言動によって大きく歴史が動き、多くの命がもてあそばれる様な事態を何度も経験してきた人類。

人類というマクロと個人というミクロは複雑に入り乱れてもいます。

人種や宗教を始め、国家や利害、価値で繋がる集団など、そこに見えるものは正に「心」を持ったが為の負の部分の表れとも言えるでしょう。

本来人間は自ら考え、選択し行動する事が出来ます。

何かに属性を持たせる事も、単独で行動する事も可能ですが、まずその前に立ちはだかる壁があります。

ルーツや血、宗教という繋がりです。

それはある意味、強い結束と同時に逃れられない形となって日常に溶け込んでいきます。

宗教や民族、国家主義といった集団コミュニティという形で、生まれながらに、またその国や地域といった選択できない要素という壁です。

見方を変えて見ましょう。

果たして上記の様な組織や集団は、人類にとってプラスに作用してきたか?という側面です。

人間は単独では生きてはいけません。

助け合いながら社会を作り出しルールを決め、見返りとして衣食住や病気の治療などの保証が受けられるように人類誕生以来このシステムを積み重ねてきました。

しかし、人口が増えるに伴いまとまる事が難しくなり、沢山のコミュニティが出てきたのです。

中身もより複雑になり、生活し生きていくという本来の目的が、違う目的にとすり替わってしまったのです。

そして価値を持ち出して選別するようになってしまいました。

人間が集まると争いが始まるのは当然で、個々の考えや価値観が違うとどうしても衝突してしまいます。

まして欲が加わるのですから、争い事が起きるのは当然の事でしょう。

その際、敵か味方かの判断材料となるのが、上記の「血」や「ルーツ」、「宗教観」といったものになるのです。

結局、集団でしか生きられない人間ですから、妥協が必要となります。

しかし、妥協も限度を超えると、また争い事が始まる、すなわち平和と争いのループから逃れられないのが、残念ながら人類の歴史であり、集団コミュニティは「苦」を生み出し続けているといえ、プラスよりもマイナスの方が多いとも言えます。

大切な命と引き換えに得られるプラスだからです。

 

反面、先人たちの言葉という過去を記録し学び、活かし未来を創造する事も出来るのが、人類でもあるのです。

個々の存在が、集団、大勢の「負」に傾く事を良しとしない力を働かせる事で、均等を保っているのです。

私達は、種という大きなくくりだけでは、生き延びていく事は不可能になってしまいました。

価値や欲が必ず誰かを悪魔の様な独裁者にしてしまうからです。

だからこそ個々という種の中での多様性を重視しなければいけないのです。

 

自然に対する、この星に対する使命をもって生れ出てきている事に、その原点に戻らなければいけません。

そして改めて食物連鎖に組み込まれている事も忘れてはいけないのです。

資源としての動植物を管理したり、絶滅から救う事もその一部と言えるでしょう。

勿論自然に組み込まれている人間が知らず知らずのうちに、利用されている事もあります。

ミツバチも人間が関与する事で生き延びているとも言えますし、花々の一部も同じように人間が育て、その子孫を絶やす事無く生き延びています。

 

個々の存在の役割は、上記の目標を達成するために欠かせないものなのです。

かつて食べる為では無く、毛皮や象牙、鯨油といった資源を動物達から奪い取り、大量虐殺の様な事をやってきましたが、理科学、生物学の発展や保護に寄与した個々の人達により絶滅を招くような事態は、これ以上至らない様になりつつあります。

個人の力だけでは防ぐ事は出来ませんでしたが、その個人が知恵を出し合い、救いの手を広げる事で成しえた事とも言えるでしょう。

 

それではその個々に焦点を当てて考えて見ましょう。

人は自然ですから、心もじっとしている訳ではありません。

良からぬ事や様々な欲求、自己保全や快楽が「こちら側は楽しいぞ」と誘うかと思えば、自己のアイデンティティー(identity)すなわち自己・自我の意識の不安定さに悩み、自己肯定や保身、自己否定や投げやりの気持ちが「ジッとして耳をふさげ」そして「私って何?」とつぶやいたりと一時も同じ状態では無く、葛藤や迷いの中で物事を決断しています。

小さい頃、私は平行棒の上や鉄棒、道路のブロックやどぶ川の淵を歩くのが好きでした。

そんな経験は誰にでもあると思いますが、街中でも母親と手をつなぎ、幼い子供が植込みの淵のコンクリートの上やちょっとした高さのブロックや縁石の上を歩いているのを見かけます。

バランスを崩して足を踏み外すと、打ち所が悪ければ骨折するかもしれませんが、子供にとってはそんな事はお構いなし。

運悪く踏み外しても、親を含めた大人が手を差し伸べて怪我をさせないようにしているのですが、もし危ないからと何もさせなければどうでしょう?

人生は生まれてからずーっと「苦」であるとこのブログでは書いています。

「苦」を避けることは出来ません。何故なら誰でも「死」が訪れる事と、そもそも心も体も不完全だからです。

だからこそ、生れ出た意味を見い出さなければ、苦のまま人生を終えてしまうのです。

「危ないから」「やっても無駄だから」「意味を見い出せない」と言い訳は沢山出来ますが、やらないと経験になりません。

手を繋いで安全を担保してくれた親や周りの大人達の手を離す時が来ます。

もし落ちても自力で進まなくてはならないのです。

 

もし目をふさがれていたら、真直ぐに歩くことは出来ません。

まして細い縁石の上ならなおの事、足を踏み外してしまうでしょう。

見るという現実の行動は勿論ですが、心にも見るという力が備わっています。

ただ、実像であっても心の目であっても、本当の事を見ているのかが疑わしいのです。

脳が処理して初めて見ているモノを「これだ!」と認識するのですが、夜中にお化けを見たり、雲の形が人の形に見えたりするのも、それまで蓄積されてきた様々な情報と結び付けて判断しています。

すなわち、見ているものは見る側の心によって変わるという事になります。

いつもの朝日が、山頂で見ると拝みたくなるような神々しい太陽に見えるのも、また愛する人を見る時も、本質、あるべき姿は変わってはいませんが、見ている心が違う為に普段とは異なる見方をするのです。

では、見る側の心の事を考えて見ましょう。

心は常に流動していると書きました。

落ち込んだり、怒ったり、解放されたような気分の時もあれば、閉じ込められている様に感じる時もあります。

そんな色々な状態でモノを見るわけですから、たとえ同じものや同じ状況でも見たモノ、受け取ったモノも違うのが当たり前です。

イライラしている時に「大丈夫ですか」と聞かれても「ほっといてくれ」となってしまうでしょうし、道で転んだ時に「大丈夫ですか」と聞かれると、ありがたいと思ったりと受け手の心の動きが、反映されるのです。

詐欺のメールもわざと考えさせる時間を作らせないように巧妙に誘導してきます。

普段なら冷静に考える事が出来ても、矢継ぎ早に危機感をあおってこられると、焦りがその矛盾したメールの文字を真実だと捉えてしまうのです。

まるで縁石やブロックの上を歩いている様な私達は、落ちないようにとしっかりとした心の目で先を見据える事がとても大切になります。

その芯となるモノ、それは今まで色々な形で呼ばれてきました。

「道徳」「倫理」「人間性」「真理」「善行」「道」等いずれにせよ心の中にあるべき一つの指針の様なものです。

ぶれないモノと言ってもいいかもしれません。

ただ如何せん人間は誘惑や欲求といったブレる要因に負けてしまう事の方が多いのです。

加えて「価値」という誘惑が拍車をかけてきます。

ですから、見る目が狂い縁石の上を歩けなく、進めなくなってしまい、右や左にと落ちては怪我をし這い上がろうとしたり、転んだまま動けなくなったりするのです。

大切なのは、その狭い縁石、すなわち「道」から落ちる事、外れる事を怖がってはいけないという事です。

そして落ちたまま良しとしない事です。

皆が落ちているから自分も仕方がないと考えてしまう弱さを見つめ、修正する前向きな心の中の芯を持ち続ける事です。

時には留まり、落ちた人間があなたの足を引っ張る事もあるでしょうし、逆に引っ張り上げてくれる人もいます。

手を繋ぐか離すかは自分で決めなくてはならないのです。

その選択こそが「芯」を持つ「心」に左右されるのです。

 

全体主義、独裁主義の世界では、皆が同じ方向を向けと指示されます。

その方向が例え間違いだとしても従うほかありません。

個々の存在は消され、はみ出す事を良しとしない社会は「生きる」という人間の大切な喜びを奪うばかりか諦めや妥協を作り出し、やがて多くの人達は従属が当たり前となり考える力を失ってしまうのです。

それでも、個々が立ち上がり「おかしい」と声を上げる人が必ず現れるのは「芯」「人の道」を信じているからにほかなりません。

もし、その様な環境に日本がなった時、果たして「おかしい」と声を上げる人達の一人になれるか?

第二次世界大戦初期の日本国内がどの様な状態になったか?

答えは目に見えている事でしょう。

 

日々の生活の中、例え自由主義国であっても、組織や集団の中ではいつ起きてもおかしくない状況なのです。

パワハラを始めとするハラスメント(harassment)「嫌がらせ」に泣かされる人は後を絶ちません。

個々の存在が、そしてその個人が持ち合わせている「芯」がいかに大切か、そして声を上げる勇気の後押しである「守るべきもの」が何か?

今、私達に突き付けられている問いとなっている事は間違いありません

 

「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆基準となるもの(7)」に続く

 

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