心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

戦争⦅日本の選択⦆(3)

それは、自分に無いモノを他人から得ようとし

底なしのような無力感を感じるはずだ。

そこにあるのは罪悪感に落ちる優越感。

穏やかには程遠い。

何も持てない人達の不幸と、お金や権力を持つ人達の不幸は、

選べるか、選べられないかの差だけで、不幸にかわりない。

仏像もキリストも目をみれば、幸や不幸はそこに無く、

決して、あなたに視線を合わさずに、

迷いも無く見つめている。

こうあるべきという教えも無い。

答えは自身の中にあると言いたげだ。

 

第二次世界大戦後77年目の夏、日本は類を見ない線状降水帯による豪雨で、沢山の方が被災されました。地震も相変わらず頻発しています。

これら天災は、地球温暖化等、人類が直接ないしは間接的にその引き金を引いているとも言われています。

未だ戦争や紛争が続き命が奪われ、戦闘による大量の二酸化炭素の排出をし続けている人類。

以前から海洋生物の体内にマイクロプラスチック(レジ袋、コンビニの弁当箱、ペットボトルの蓋などのプラスチックゴミが微細な粒子になったモノ)が検出され話題になりましたが、最近、人間の血液中にマイクロプラスチックが含まれているという恐ろしい報告のニュースが流れていました。

結局この星に人間が誕生した訳は何だったんでしょう?

46億年前に誕生した地球。約2億年かけて海を作り出しました。

その後38億年前頃、つまり誕生から約8億年後ついに生命が海の中で誕生したのです。

そして酸素が登場するまでに約22億年もかかっているのです。

 

人間が自然に与える影響のスピードがいかに速い事か解ると思います。

宇宙というスケールで考えると、人類はマイクロプラスチック以下の存在に過ぎません。

勿論この太陽系も、ゴミの様なものです。

有っても無くてもどうでも良いくらい、本当にちっぽけな存在なのです。

余りにも小さく、何が起きるか解らない危うさの中でしか人間が住める場所はありません。

それでも人間は、争う事を辞めません。

この星に対して、やらなければいけない事を、どんどん先送りにしながら。

 

欲は誰にでもあります。

けれどもその欲が自分の快適さだけを求めるものである限り、戦争も紛争も無くならないでしょう。

こんな、か弱い地球の上で欲にうごめく人類の姿を、行動を本当に私達は許容していいのでしょうか?

命が生まれるまで気の遠くなる時間と、偶然と奇跡を費やし、その大切な命を僅か数秒で終わらせる愚かな行為になぜ気が付かないのでしょう?

「大勢(たいせい)」は、身に危険が及ぶまで、財産を失くすまでその恐ろしさを知ることは有りません。

すなわち、国民が大勢という流れの中で権力を見ている限り、権力者の思うつぼになります。

疑問も持たずに、その場その場で右往左往し、発信し、同調を求め、意にそぐわない者を攻撃する人達の存在を絶対に良しとしない社会であるべきです。

例え少数であっても、異なる意見を無視する事は、やがて大勢として危険な方向へと舵を切ります。

誰もが自由に意見を言い、話し合い議論を尽くすという民主主義の根幹である事を、私たち一人一人が認識し、政治家に丸投げしてはいけないのです。

大切になるのが、マスコミやSNS等のメディアの役割でしょう。

まだ記憶に新しい忖度という言葉、その様な兆候が最近どんどん問題として浮き上がってきました。

情報を都合の良い様に操作し、兵士や国民に高揚感を与え、正義を押し付ける事は、有事、戦争の際に必ず起きる事です。

事実を隠す事で、無駄に命が奪われる事は、歴史がハッキリと示しています。

その仲介をマスメディアが助長したり、忖度したりしてしまう事は十分考えられます。

そして、大勢が雰囲気を作り上げ、巻き込み、負の方向へと突き進んでしまいます。

SNS 等の個人による情報発信が簡単に出来るようになった現代。

扇動したりフェイクを流す事も簡単に出来る様になってしまい、情報に翻弄されて思わぬ行動を起こしてしまうのです

それは、政治に対しても言える事で、短絡的な民衆受けの良い言葉で、高揚させるような人達の言葉に浮かれてしまい、聞いた側自らが発信者となって後押しをする羽目に陥るのです。

自分を家族を守る為には、やはり歴史の示してきた過ちに目を向け、なぜ間違えてしまったのかという事を紐解く力です。

今だけの事ばかりに囚われて、早急な判断で行動を起したり、他の人達に押し付けたりする事は絶対に避けなければいけません。

 

誰でも過去の事をいちいち調べたり、悲惨な出来事を聞きたくないという気持ちは解ります。

まして自国が犯してきた過ちを認める作業は気の重いもですが、それなくしては未来はありません。

 

日本のすぐそばで、きな臭い事が増えています。

ただ、単純に防衛を含む力に頼る政策に舵を切る事に連動させる事は全く別問題であり、様々な方策を模索し、特に外交による話し合いに重点を置くべき事なのです。

勿論、普段からの外交力が大切ですが、今の日本を見る限り全てにおいて立ち位置が定まらず、場当たり的な政策ばかりをやって来たように思うのです。

原水爆一つとっても、とても被爆国がとる態度とは思えません

77年間、いったい何をこの国はやってきたのでしょうか。

例えば前回も書きましたが、日米地位協定の理不尽さは目を覆うばかりです。

FEN(Far East Network:極東放送網)という名前を知っている方も多いと思いますが、在日米軍向けラジオ局で、現在は名称をAFN(American Forces Network・米軍放送網 "Eagle 810")と名前が変わり、東京では810kHzのAMラジオで流されています。 AFNを含む在日米軍の無線局は全て日米地位協定に基づき電波法の適用対象外となっているのです。

すなわち外国政府や外国企業のほか、役員や議決権の3分の1以上を外資が占めている場合は、無線局の免許を与えないこととしているという制約を受けないという事です。

またアンテナ等の広大な土地も、未だ返還されていません。

空、航空法航空特例法という存在が盛り込まれている為、通常建造物の高さ+300mを保って飛ばなくてはいけないにも関わらず、米軍機は、航空特例法で最低安全高度規制や、迷惑な飛行の規制に縛られずに飛行する事が可能なのです。すなわち日本の上空を自由に飛び、日本の管制を無視できるのです。

またアメリカ軍による日本国内の航空管制のお陰で、航空機が迂回ルートを飛ばなくてはならない事も問題になっています。

低空飛行訓練ルートを勝手に設定もしているのですが、同じ先の大戦での敗戦国のドイツやイタリアは、自国が管理しているのです。

その他、この地位協定は犯罪が絡む様な様々な問題を起していますし、思いやり予算と言われる在日米軍駐留経費負担も、経費負担率(2002年)で実に74.5%も負担していて世界で一番の負担率で、毎年2.000億円ほどの支出をしているのです。この中から娯楽施設の人件費も支払われている事も解っています。

このような思いやり予算に対して、「守ってもらうから仕方がない」とか「防衛として考えるならば、むしろ安く済んでいる」という人達もいますが、言いたい事や主張も出来ず、犯罪者さえ厳正に日本の法律で処罰できない現実が、はたしてこの国の為になるのでしょうか?

前回でも書きましたが、大国は自国の利益を最優先に、それも巧みに計画を立てています。

いわば日本はカモにされている可能性が大きいのです。

対等に、自由主義国として渡り合える関係を持つ為には、曖昧なその場に合わせる様な態度でいては、いつまでたっても言いなりで、対等にはならないのです。

出来ない事にはハッキリとNOと言える政治家が必要なのです。

 

アメリカが良い悪いと言っているのではなく、むしろ日本政府の腰の引けた態度に危機感を感じるのです。

歴史は過去からの教訓を学ぶ為のもで、戦国武将の戦術や名言を評価する為ではありません。もっと近代史に力を入れるべきです

そして、全ての過ちも含めた事例を次の世代を担う子供達に教えていくべきです。

国歌斉唱も「日の丸」に一礼する事も、それが何の為にやっているのか、何を心に訴えかけるのか考える機会がないまま、形式だけでやったとしても意味があるとは思いません。

愚かな戦争で敵味方含め、亡くなった多くの人達の「お国の為」「生きろ」「生き抜いてくれ」という想いの裏にある「こんな愚かな事で死にたくない」「二度と同じ過ちを繰り返すな」「駒のように動かさる様な屈辱を、次の世代に味あわせないで欲しい」「無駄死にしてはならない」「生きて帰りたい」という悲痛な想いがあったはずです。

単に「尊い命があったからこそ…」とか「彼らの犠牲の上に…」「英霊の御霊に哀悼の誠を…」という言葉で、格好だけで済ましてしまうお偉方に、その裏にある一人の人間としての声にもっと耳を傾けるべきです

いつか世界中の人が、笑顔で青い空を見上げ、澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込める日が訪れる事を願いたいものです。

その日、人類はやっと進化した日として、歴史に刻まれる事でしょう。

 

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戦争⦅日本の選択⦆(2)

「暑い、暑い」と風を待つ

木陰のまだらな陰陽が

涼感を呼び寄せて

当たり前の日常に感謝する

戦火の中で逃げ惑う

「暑い、暑い」と叫ぶ声

時を経て聞こえるその声に

想いを馳せて汗を拭く

無駄では無かった命だと

風は心を通り抜け

大きく心を揺さぶった

 

今の日本のGDP「Gross Domestic Product」国内総生産IMF国際通貨基金)が発表した2021年度世界3位で、まだ経済力は高い方ですから、そのおかげで防衛力は世界でも5位(GLOBAL FIREPOWER 2022参照)。

アメリカからの武器購入等で最新兵器を所有してはいますが、自衛隊員数は約26万人で、お隣の中国は2~3百万人もいます。(正確な数字は解りません)

また自国だけで情報収集する能力は同盟国無しでは極めて低く、情報共有というシステム無しでは、電子戦とも言われる近代の戦争で勝つ事はほぼ不可能に近いのです。

また攻撃や防御するとなると必ず補給、すなわち兵站(へいたん)が必要になります。

先の大戦でも、補給路を断たれ数多くの人達が飢餓や自決に追い込まれました。

島国である利点は、裏返せば不利な条件ともいえ、兵站(へいたん)が断たれれば何も出来なくなります。

今の台湾情勢を見れば解るはずです。

その時、同盟諸国はどうやって兵站を確保してくれるでしょうか?

制空権をいつまで保持できるか?

いくら最新の兵器があっても、弾薬や食糧や燃料が無くなれば意味のないものになってしまうのです。

ウクライナの戦争でも、ロシア軍の車両のタイヤ性能が悪く、役に立たなくなる事例もニュースとして流れています。

タイヤ一つとってもこのような事が起きるのです。

世界で起きている紛争地で見かける運搬や軍用車両として使用されている日本車の多さも、整備性や耐久性を考慮しているにほかなりません。

果たして空と海、四方八方からの攻撃にどうやって立ち向かうのでしょうか?

兵士に志願し、前線で戦える人材をどう確保し送り出すのでしょう?

ましてアメリカの核の傘の下と言っても、アメリカ本土を狙って攻撃されると日本の事等かまってられなくなるでしょう。

そして日本が狙われるのは通常であれば基地だけでなく、原発や発電設備、エネルギー貯蔵庫、放送局や海底ケーブルと誰が考えても解る事です。

勿論レーダー補足が出来ない無数のドローンなどの無人機による攻撃やサイバー攻撃にさらされ、インフラが破壊され、ガラス張りのビルから雨の様に降り注ぐガラス片や、道の狭さから緊急自動車は通れず、密集地域では次々と火災に見舞われる事でしょう。

タワーマンションは、逃げにくい構造、すなわちエレベーターが止まり、海からの強風や火災による火災旋風によりヘリも飛べないでしょうし、飛べたとしても一度に大勢乗せることなど不可能です。

そもそも有事の際に飛ばす事さえ出来なくなるのは目に見えています。

一極集中の東京はパニック状態になる事は間違いありません。

そして誰かが核のボタンを押せばもう破滅しかありません。

例え直接日本に落とされなくても、核爆発による電磁パルスの影響で電子機器は使用不可能になり、風向きによっては放射能が飛んできます。

それだけでも生活は一変します。

1986年4月に起きたチョルノービリ(チェルノブイリ原発事故での子供達の甲状腺がんの増加も現実にあった事ですし、未だに放射能を食い止める為、石棺(コンクリートの建造物)で封印され、さらにそれを覆う構造物まで作られているのです。

放射能は日本の雨水からも検出されるほどの規模でした。

責任や因果関係を未だ認めていない福島原発爆発による被ばく問題も、何ら解決もされていないし、最近ではニュースにもならないのです。

何度も書きますが、始まれば終わりなのです。

 

これまでに電力不足や災害による停電、通信事業者や銀行のシステムトラブル等が起きる度に、大騒ぎになる様な、いわば脆弱(ぜいじゃく)そのもののこの国の実態を、現実を見なければいけません。

当然ながら日々貯めている買い物ポイントも、全て消失しますし、カード類はゴミとなるでしょう。

 

想像すれば解るはずです。

どれほどの家に爆撃に耐えられるシェルターが備わっているのでしょうか?

何日にも渡って自給自足が出来る家が、どれほどあるのでしょうか?

放射能からの防御体制、例えば風向きの把握や安定ヨウ素剤(40歳未満のみ服用化ですぐ飲まないと効果は薄れます)の備蓄をしている家や、自治体の何処にあって、どの様な配布方法をするのかは知っていますか?

戦争に伴う様々な病気の蔓延、化学兵器使用時にどう対処するのでしょうか?

陸路や空輸、船で本当に必要物資を届けられるのでしょうか?

そもそも日本の高速道路は緊急着陸できる構造になっていませんから、ガソリンや軽油が尽きれば車両による補給も困難になるのです。

 

そして、いったいどこの誰が責任を取るのでしょうか?

一体誰が検証するのでしょうか?

国民が安全な戦争があるなら教えて欲しものです。

被爆国である日本がやるべき事は、核廃絶と偏りのない世界の国に対する金銭的、人的支援や技術協力、経済やインフラ整備の支援や子供達への医療教育支援など、いくらでも出来るはずです。

国際的な人道支援団体に個人的に参加する人を増やす方法を考えてもいいかもしれません。

若者達の国際交流を盛んにしてもいいでしょうし、世界中に手紙やSNSで友達を作る企画や難民認定のハードルも必要以上に高いままにするのではなく、むしろ積極的に受け入れ、人口増加や若者が増えるようにする事だって考えても良いと思うのです。(一部の人達が民族や宗教、血縁といった理由で否定的な人達がいるのも事実ですが)

また核の傘核兵器を無くす事とは、次元の違う問題であるはずです。

にも関わらず、明確な態度を取らない姿勢は、かえって信頼を失います。

友好国との付き合いは対等な立場でこそ成り立つもので、正に忖度したり、顔色をうかがうような態度を取っていれば、世界の笑いものになる、いやなっているかもしれません。

世界で一番長い歴史を持ち、唯一の被爆国という立場でのNPT(核拡散防止条約)で核廃絶を夢物語に終わらせないようにリーダーシップを取り、国連の戦勝国に有利な在り方を改め、正常に機能させる役割、本来あるべき姿に変えていく事に真剣に努力をすべきなのです。

その姿勢こそが、日本を守る事が出来る最大の武器となるのです。

加えて日本の救助隊が海外に派遣され活躍したり、名も知られていない日本人が、世界中で現地の人の為に尽くしてきたりしてきた事を忘れてはいけないのです。

その様な行為に対して裏切ったり、無駄に終わらせる事は愚かな事以外何物でもありません。

そしてその様な支援が信頼や友好を強め、守りの壁となって攻撃対象とは絶対にならないでしょう。

親切にしてくれたり優しくしてくれたりした人を殺そうとうとは思わない事と同じ事です。

国際結婚している私も、妻の国の人達に親しみを持っていますし、友人もいます。

その彼らの国を攻めようなんて思いませんし、身近に外国人の方々と接している人なら解るはずです。

 

何より地理的にもそうですが、宗教問題や民族問題による国内における対立があまり無く(カルト的な宗教団体や政教分離と言われながらも政治に対する影響は、少なからず無くなっていませんし、ヘイトや入管による人権を踏みにじるような行為、外国人労働者に対する一部企業の搾取等は依然存在し、今のところ改善されてはいません)、政治的には、他の国に比べはるかにその様な問題に時間やお金を割く事が少ない国が日本です。

 

米ソの東西冷戦時、アフリカは鉱物の宝庫という事もあり、大国に翻弄されてきました。

今でもアフリカで話されている言葉の種類からも、それがうかがえます。

冷戦以降も、いや遥か昔から大国は自国の利益を求め他国を植民地化し、鉱物や石油に限らず人的な資源の確保をする為、航路確保や寄港地にする為、侵略や紛争へと突き進んできました。

アフリカに限らず、上記の理由に加え布教活動及び強制改宗の目的で占領された国は山ほどあります。

そして、彼らが去った後は内戦が勃発し、宗教争いが始まり、権力の取り合いと進んでしまったのです。

日本も歴史の教科書に出ている様に、植民地化しようと他国に翻弄されましたが、その頃は戦国時代であり、中央集権国として統一された時期で、武器(鉄砲等)や士気の高い戦士の数も多く、いわば軍事大国状態であった為、宣教師は本国に侵略は困難であるとの情報を送り、功を奏した事と、宣教師による布教(侵略する為という側面もあったとされる)でも国民全体を改宗させるような影響を与えなかったのが幸いしたのです。

(一方で日本は、他国を欧米の植民地支配(侵略)から独立させる、また日本が独立国家としての存続を脅かされる危険という前提で他国に対し勢力を拡大した側面もあり、今でも賛否が分かれるところで、国によって日本に対する感情が違うのは知っての通りです。)

 

日本は資源を他国に依存しています。

それは、非常に不利で弱点であると同時に、裏を返せば資源が無い事は、侵略されるリスクも多少でも低くなります。

他国から見れば災害が多く、資源が少ない国を手にしたところで何の利益もありません。

だからこそ話し合いや、時には仲裁を率先してやらなければいけませんし、それが出来る国なのです。

ご機嫌取りの様に、軍事的に足並みを揃えるばかりが外交ではありません。

同調できない事があれば、ハッキリと意思を示さなければ逆に信頼を失ってしまうからです。

何より重要なのは、歴史的な史実や事実を隠す事無く、未来につながる子供達に教えなければいけません。

無かった事にしたり、負の部分を載せないだの、こんな事を許してはいけないのです。

愛国心がそがれるといった意見を述べる政治家もいますが、全くの間違いで、正にプロパガンダであり、本当の意味での愛国心を生み出さなくしてしまいます。

人に例えれば解る事で、悪い部分を知ってもなお理解してくれるからこそ、お互いに信頼関係が生まれます。

上辺だけの美化された人や国は、やがて化けの皮が剥がれ落ちるのです。

 

「Never do anything against conscience even if the state demands it.」

『もし状況がそうすることを求めても、良心に反することはどんなことであってもするな。』

アインシュタインの言葉より

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このブログ「魂とは?霊とは?」でも書いていますが、戦争になれば命の引き継ぎの中での「魂」という故人の想いを、伝える事すら憚(はばか)ったり話さなかったりと、受け継ぐことが出来なくなってしまいます。

それは、当事者が味わったあまりにも無残な経験が、口を閉ざさせてしまうからです。

死はその人の全てを消してしまうのですが、残された者に想いが託されていきます。

一人一人の想いが積み重なって、争う事の愚かさを歴史として積み重ねてきているのです。

地球上で、過去の事を知る事が出来る動物は人間だけという事には必ず意味があるはずです。

 

何の為に生れ、死んでいくのかさえ解らないまま命が失われる事の無念さや悲しみは、本人のみならず社会にとっても、そして未来にとっても何もいい事はありません。

軍事費が必要で無いとは書いてはいません。

残念ながら、領海侵犯による脅威や漁業に影響を及ぼす事例も沢山発生しているのも事実です。

「日本政府は弱腰だ!」との声も聞かれるようになってきました。

ただ、だからと言って単純に防衛費を増額し、防衛力を高める事と短絡に結びつけることが果たして正しい事なのでしょうか?

別の問題として考える必要があるのです。

何故なら、走り始めると止める事が出来ない事は歴史が証明しています。

だからこそ前述の様な外交努力が今以上に必要であり、物事を短絡的に考えてはいけないのです。

本当の事を僕らは知らない

臆病で弱くて

残忍で粗暴

古い動物脳がそうさせる事を

動物は生きる為

人は恨みの為

引き出すのは戦争だ

この星は

それを良しとしない

命溢れる星として託した人間を

許しはしないだろう

 

国のやる事を傍観者として見ては絶対にダメです。

誰も責任を取ってはくれません。

何より、死んだ人間は行き返らないのです。

そして、若い人達や子供達が真っ先に死ぬ事で国が存続すること等ありえません。

あなたの家族や、知り合いが派兵される事を想像してみて下さい。

有事が起き、日常生活が一変する事を、憎しみが連鎖していく恐ろしさを、どうか想像して欲しいのです。

日本国憲法第2章「戦争の放棄」第九条 

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

そして日本国憲法の前文には、

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

と記されています。

読めば解りますが、「全世界の国民」という文言が入っている事に心打たれはしないでしょうか?

 

権力者や政治の暴走を止める役目になっているこの憲法を、そして日本国民だけでない世界に目を向けての決意を記した憲法を私は誇りに思います。

前にも書きましたが、憲法は例え選挙で選ばれた政治家であっても、人間である以上間違いを犯します。もしくは、保身や権力行使による望まない判断を下す事もあります。

その様な事から国が思わぬ方向に舵を切り、国民にとって不利益になる事を防ぐ防波堤の役割をしています。

世界情勢が変わったからと言って、簡単に改正するものでは無く、あくまでも自国の権力に対する抑止という観点から十分な議論と時間をかけて考えていかなくてはいけません。

何故、この条文が作られ、どんな意図があるのかを、歴史を紐解きながら全ての国民が考えなくてはならない大切な事なのです。

と同時に、世界に類を見ない平和を謳(うた)っているその趣旨を、もっと世界中に知らしめる必要があるのではないでしょうか?。

日本は一度決めた事を、やめたり見直したりする事をしてこなかった事を思い出して欲しいのです。

自衛隊の海外派遣やオリンピック、元首相の国葬などを始め、原発再稼働から議員に対する様々な使途不明金?手当や忖度。政教分離の在り方まで、おかしいと解っているのにもかかわらず、検証や見直しも逃げ腰で責任を誰も取らない、取らなかった事を繰り返してきた事実を忘れてはいけません。

大義名分として「議論は尽くした」「国民の総意」とか「理解を得ている」「反対する者はごく少数」「真摯に受け止める」「意見として参考にする」「取り組んでまいりたい」という言葉を真に受けてしまう事は、ごまかしや道をそれてしまう可能性があるという事も十分考えられますし、実際に起きているのです。

決めてしまうと後戻りをしないという事が、いかに恐ろしいかは、先の大戦を始め歴史が示し、警告しているのですから。

更に、マスメディアによる監視の目も、その機能を発揮していないばかりか、政府に忖度するような姿勢でいる事も非常に懸念されるところです。

先の五輪でも、コロナ患者が多数出て、死者の数が増えている時に、公共放送は朝から晩までオリンピック番組を放映していたのを思い出して下さい。

 

私達は、備わっている「想像力」を大いに働かせて、未来を救う道を見つける時を迎えているのです。

その担い手になる国として、日本であればこんな素晴らしい事は無いでしょう。

 

この時期、お盆にお墓参りをしたり、モニュメントや寺社に行ったりする事でしょう。

そこでの祈りは先祖がいたらこそ、自分がいて今を生きている事への感謝の祈りでしょう。

そして、過ちを繰り返さないという決意のはずです

今の時代、SNS等で個々に出来る事は沢山あります。

声を上げる事や、呼びかけ、世界に対する発進と、若い力が平和へと動かせる時代です。

世界中の未来を担う子供達の為にも、戦争は絶対にしてはいけません。

 

「Peace is not intended to be forced.It is only by understanding, something that can not be reached.」

『平和は強制できるものではない。それは理解することでしか、到達することができないものだ。』

アインシュタインの言葉より

 

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(記事は出来るだけ正確に記しているつもりですが、間違い等があれば指摘をお願い致します)

戦争⦅日本の選択⦆(3)に続く

 

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戦争⦅日本の選択⦆(1)

昨今の世界情勢のニュースを見る度、本当に暗い気持ちになってしまいます。

宗教や民族がらみの紛争も一向に終わる気配がありません。           

権威主義自由主義独裁国家に民主国家とハッキリとした色分けがグラデーションの様になってしまい、人々は日々の暮らしを豊かにしてくれるという甘い言葉を話す政治家や権力者を支持するようになっています。

そしてひとたび権力を握ると、手放したくないのか強硬な手段に出る事も当たり前の様に報道されています。

「欲」という悪魔の側面がそうさせるのでしょう。

一方で、戦争というモノが身近に感じられる様な情報が日々更新され、過去の歴史からの警告を無視するかのように、防衛や軍事力強化を唱える人が増えています。

 

戦場のピアニスト」「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」等の有名作を始め、「私の親友、アンネ・フランク」「ホロコーストの罪人」「黄色い星の子供たち」「杉原千畝 スギハラチウネ」「ふたつの名前を持つ少年」「エスケープ ナチスからの逃亡」等などと、第二次世界大戦下の悲惨な運命、特にユダヤ人に対する非道さを描いた作品は本当に沢山ありますし、色々な国で作られています。

映画好きの私は、時間があれば事実として作られた映画をメインに、以前観たものも含め少しずつ見直していました。

真実を元に、描かれた作品の多くは、どれも脚色されているとはいえ、見た後は、喪失感や無力感に襲われます。

戦争は、普通の人々を悪魔に変え、天使にもします。

映画を観ると、若い時に観た時と今改めて見直した時とは、感じ方に大きく変化が有りました。

 

例えばもし、加害者だったら?

もし、ユダヤ人ではない被害者だったら?

もし、当事者のユダヤ人だったら?と。

自分を、色々な立場に置き換えて観ていました。

 

地下組織に入って、武器の調達やビラを刷ったり、匿(かくま)ったり出来るか?

危険を冒してまで、助ける事が自分に出来るか、甚(はなは)だ疑問です。

拷問や殺されるという恐怖の中、仲間を売り、情報を売ってまでも、生き延びようとしたに違いありません。

平気で同胞からひったくり、落ちたスープ状の食べ物に顔をつけ、むしゃぶるように舐めたり、バケツに貯まった水を飲んだりしている人達の姿は、情けなさや虚しさより、正に自身に置き換えて見ている様なイヤな感覚になってしまいました。

何をしても必死で生きようとした人々がそこにいたのです。

もし自分だったら?

どう考えても、そんな勇気は私には無いと思うのです。

自分の家族の為なら、どんな拷問をうけようが、殺されてもいいと思っているのにです。

この境界線は、何だろうか?

映画の中の人々は、勿論ほんの一握り事例で、歴史に埋もれた誰にも知られていない勇気ある行動をした人々が、その裏には沢山いました。

人間の中にある残酷さや、残虐性、悪魔になる危うさは、誰にでもあるのだろうか?

日常的に人が殺されていく事が、当たり前になった時、慣れるものなのか?

自分は、どう行動するだろうかと。

たぶん、どの立場にいても、権力に迎合した態度をとり、意気地無しであり、情けない弱い人間であったと思いうのです。

 

このブログで実弟孤独死の事を書きましたが、発見されるまで一週間経っていました。

風呂場で亡くなっていたのですが、運ばれた後の風呂場の色と匂いは忘れられません。

一生懸命に掃除していたのですが、匂いも含めて綺麗にはなりませんでした。

戦争時にはそれが当たり前の光景として見る事になると思うと、人間って何だろうと思ってしまいます。

 

当然、戦後生まれの私には戦争の経験も無ければ、極限に追い詰められる様な体験も有りません。

亡くなった戦争経験をした父も、一切その事を話す事はありませんでした。

この地球上で悲惨極まりない争いが、今もずっと何処かで継続している事と、歴史から学ぶ人々の苦悩を考えた時、今自分が置かれている平和な環境とのギャップがあまりに大きく違い、正直戸惑ってしまいます。

それは、何処か遠い国の話で実感が無く無力感もありますが、いくら想像しても冷めた自分がいる事の情けなさです。

 

戦争を体験された方が高齢となり、お亡くなりになった方が増え、実体験を直接聞く事はほぼ不可能になってきました。

残された資料や映像等出来る限り見るようにしてはいますが、実感が湧いてこない自分がいます。

ただ、想像力を持っている私達は、身近な事として感じることは出来なくとも、同じような辛く悲しい体験をしてはならないという事は解ります。

自宅では無く、病院で亡くなる人は8割近くになり、「死」を見、感じる機会がどんどん減っています。

それは人間に限らず、食用としての家畜も同じで、肉として認識しているだけで、その裏にある殺傷まで想いが至りません。

またペットの可愛い動画や写真を見る機会は沢山ありますが、悪質なブリーダーやペットショップ業者、ペットショップそのもの存在意義を考えたり、捨て猫や犬といったペットの殺傷処分も見たり、考えたりする事はほとんど有りません。

すなわち「死」に対する問いかけや、死ぬという事の在り様を考える機会が無いまま、私達は今日に至っています。

 

死は誰にでも訪れる事です。

本来「死」は自然の法則に従って訪れるものです。

自然の災害による「死」も含まれるでしょう。

が、人間が人間を殺す事で「死」をもたらし、もしくは苦しみや痛みを、当事者だけでなく、関わった全ての人に降りかかる「戦争」という人間だけが作り出せる「罪」は、自然の在り方からは大きく逸脱した決して許されるものでは無く、忘れてはいけないし、考え続ける必要が私達にはあります。

この「罪」は憎しみという更に深い記憶として、人々に何千年に渡る遺恨を植え付けてしまう事になります。

どんな理由があるにせよ、人が人を死に至らしめ、悲しみをまき散らす事は、一番やってはいけない事です。

 

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クリント・イーストウッド((Clinton Eastwood)監督2006年作品の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』で描かれていたように、戦争は、味方ばかりに悲しみをもたらすものでは無く、敵となった人も同じ思いをさせる事になります。

そして、何より人間である所以(ゆえん)の尊厳や思いやりを壊し、集団心理と極限状態による普通の人を悪魔のように非人道的な事までさせてしまい、非常に残忍な人を沢山生む事にもなります。

それは、個人の責任でどうにかなるモノでは無く、正義や愛国心という聞こえの良い言葉で片付けられる事ではありません。

 

日本も先の戦争で被害を受け、また与えた国です。

残忍な事をやってきたのも事実です。

事実関係はまだうやむやのまま今日に至っていますが、第二次世界大戦時日本軍731部隊が、中国東北部ハルビンの郊外にある施設で細菌兵器の開発を秘密部隊として存在し、人体実験を行っていたとされ、囚人は頭を丸坊主に刈られ、「マルタ」と呼ばれていたという事です。 

細菌の研究では、主としてペスト菌コレラ菌、パラチフス菌を扱っていて、ノミ爆弾なる細菌兵器も開発していました。(瀬戸物など割れやすい器の中に入れて空から落とす)

1988年に公開された香港映画、『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌』(黑太陽731、英題:Men Behind The Sun・The Devil 731)も制作されています。


蚤と爆弾 (文春文庫)

私の記憶では学校で習った事は一切ありません。が、ノンフィクション作家の吉村昭著「蚤と爆弾」でその事を知り衝撃を受けました。

 

いくらやってはいけない事の取り決め国際法の批准(ひじゅん)や、条約を結んでも、人間の中の悪魔が顔を出し、必ず騒ぎ出し、反故(ほご)にする人達が出てくるのです。

それは特別な人では無く、ごく普通の人達の中からも現れてきます。

またアメリカのベトナムイラクといった戦争地からの帰還兵にはPTSD心的外傷後ストレス障害)やうつ病が見られ、自殺したり何年も精神的に苦しんだりしている人が多くいます。

それは本人だけでなく、周りの親族にも悲惨な影響を与えているのです。

また日本でも例外では無く2015年安保法制をめぐる衆院の特別委員会で、志位和夫共産党委員長)の質問に答えて政府が認めた発言に「'03~'09年にイラクに派遣された自衛隊員のうち、在職中に自殺したと認定された隊員は29人。うち4人はイラク派遣が原因だった」「'01~'07年のテロ特措法でインド洋での給油活動に参加した隊員のうち、同様に自殺と認定された隊員は25人」と報告されているのです。

つまり、インド洋・イラクに派遣された自衛隊員のうち、合わせて54人もの隊員が、自ら命を絶った事実があるのです。

 

戦争を始めれば、家族の歴史は勿論の事、今までの歴史の警告も全てが無駄になってしまうのです。

軍隊にしろ自衛隊にしろ、出来る範囲で透明性を求められるはずです。

何故なら権力を持っている組織である以上、歯止めが必要だからです。

にも関わらず、政府の拡大解釈によって日本では2016年南スーダンPKOに参加し、

自衛隊海外派遣部隊がイラク南スーダンで日報をとりまとめていたにもかかわらず、防衛省自衛隊が日本国民や国会に対してその存在を隠蔽していた一連の疑惑問題があった事も、もう忘れてしまっています。

 

「もし攻められるような事になったら、どうする?」

「そんな甘ちょろい事では無く、考えておかなくてはダメだ」

「現実を見ろ」という人達が沢山いる事も解っています。

現在アメリカでは、日本の核保有容認の話をする人達が出てきています。

トランプ前大統領(否認しているとも発言)や米軍事アナリスト、アンダース・コー博士、フランスの人口歴史学者エマニュエル・トッド氏等。

そして日本の中からも前総理を始め議員からも議論すべきとの声を聞きますし、核シェアリングも含めた、核保有を容認する様な発言、自民党の元首相や一部議員、ジャーナリスト達が増えてきているように感じます。

日本の周辺国は核を持つ国が多いのも確かですし、核の傘が抑止力になっているのかもしれません。

「かも」というのは本当に抑止に繋がっているのかは今の世界情勢を見ても危ういのです。

持たない国は、核の脅しを突き付けられ、同盟国はその脅しに何も出来ない事も解ってきました。

誰も自ら核のボタンを押したくはないでしょうし、緊張状態がずっと続くのです。

 

今の日本の技術力からすると、原料もあり核武装は可能でしょう。

勿論ロケット製造は国産でも開発されてはいますが、もしそうなれば、せかされて顔色をうかがう国ですから廃棄が近い固形燃料型のロケットをアメリカから高く売りつけられるかもしれません。

歴史から見ても、アメリカはしたたかな国で、自国の利益になるよう常に考えているからです。

 

果たして日本はどの方向に行こうとしているのでしょうか?

核の傘にいる事の大切さや重要性を軽々しく発言して欲しいとは思いませんし、何より傘の下という立場での物言えぬ弱腰な姿勢こそ危険なのです。

憲法改正や核三原則や敵基地攻撃を含めた政府の拡大解釈をやる前に考えなければいけない事が沢山あるはずです。

日本が核を持っていない事で逆に信用、信頼されている部分は無いのか?

アメリカの後ろ盾が本当に国益になっているのか?

割高な武器装備を買わされ、軍需産業をもうけさせる意図はないのか?

(例ですがPAC-3パックスリーと言われる迎撃ミサイルは、1発8億円もかかります)

そもそも人殺しの武器製造をこのまましてもいいのでしょうか?

日本でも軍需産業に携わっている企業は、大手も含め沢山存在しています。

戦争というワードがある限り、無くならないでしょうし、世界にマーケットを広げれば、莫大な利益につながるかもしれません。

ウクライナ戦争でもその実態が解るはずです。

他国に日本製の武器を買わせて良いのでしょうか?

ならば殺す武器に「MADE IN JAPAN」と大きく表記すべきです

 

沖縄の基地問題や1995年の沖縄米兵少女暴行事件(この事での地位協定は改善されたが改正では無い)を始め、コロナ対策でも露見した米軍の運用に国内法が適用されない日本の地位協定の見直し、被爆国としての役割等、徹底的に検証し議論を尽くす事を先にやるべきです。

考えれば解る事ですが、友好国、同盟国という側面とその裏にある戦略とは別物であるという事。

そして口先で終わるのか、先頭に立って戦ってくれるのかは、誰にも解りません。

どの国も自国民を優先するのが当たり前ですから。

ただ言えるのは戦争が始まれば必ず全てが終わりになります。

 

アインシュタインの予言として、

「I know not with what weapons World War III will be fought, but World War IV will be fought with sticks and stones. 」

『何の武器で第三次世界大戦が戦われるのかは知らないが、第四次世界大戦は杖と石で戦われるだろう。』

すなわち、これから起きるかもしれない世界的な大戦後、人類は滅んでいるかもしれないのです。

 

戦争⦅日本の選択⦆(2)へ続く

 

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切なくて

幼少期にはTVのヒーローに憧れ、青年期は実現しそうな映画の主人公やドラマに出てくる主人公に自分の未来を投影させていた。

20代、30代の頃は、それでも夢を追いかけ、実現させる為の余力もあったし、周囲の動向などどうでも良かった。

同年代が次々と就職していく中、髪を伸ばし好きな事をやってきたのだが、自分の理想とする将来像がどんどん遠くに離れる様に感じ始め、と同時に50代以降途方に暮れている自分を想像して落ち込んだものだ。

挫折し、失望し、無力感にさいなまれる。

当たり前だが、一足飛びに自分が理想とする人物や生活様式にはたどり着けない。

だんだんと限界やタイムリミットを設けるようになっていったが、焦りと共にきっとどこかで一変するような期待もあった。

それは、将来の自分の姿を見たくないという逃げだったのかもしれない。

バブル期が終わった事を横目で見ながら、焦りだしたのは言うまでもない。

上を見ても下を見てもキリがない。

普通と言われるような将来を描かなかった私。

何の疑問も持たずにレールの上を進みたくなかったささやかな抵抗だった。

それは、人生や生まれた意味という疑問が常に頭の中にあり、何をやっても見つからず、誰も答えを教えてくれなかったからかもしれない。

何より自分で見つける事が出来ないもどかしさに、大切な時間を使ってしまった。

最近、夢の中に過去に出会った人達が日替わりで出てくる。

起きた途端「あの人とも知り合いだったなぁ」という記憶ぐらいで、ストーリーも無茶苦茶だし、時代も交差している。

しばらくボーっとした後、「そういえば、あの時こうやっておけばよかった」と夢に出てきた人を思い出し、後悔が頭をよぎる様になった。

勿論、自分にとっては会いたくない人も出てくる。

「今の私ならガツンと言えるのになぁ~」等と、これも後悔だ。

考えて見ると、様々な出会いがあった。

自分の人生に関わった人達は、誰一人欠けても今の自分は存在していない。

終わりよければすべて良しという事だろうが、その時々では悩みや苦しみがあり、自身も含め人との関わり合いの難しさに悩んだものだ。

どうしようもない無力感や、焦り

やるせなさに襲われて

答え探しの旅はいつまでか

自分の存在が、あまりに薄っぺらで

厄介な思考は、行き場のない想いを影として

夜な夜な張り付いては、殴りかかるのだ

一体、誰と戦っているのか

自分は、何処にいるのか

自分は、何処にいくのか

空回りする心は

ひたすら誰かを求めている

会いたい

話してみたい

心の空虚を満たすほどの

あなたの言葉の海に溺れたい

切ないこの想いを吐き出して

 

誰でも悩み苦しみ、怒り泣いたりしながら人生を生きています。

大きな存在が、それを上の方から覗き込んでいる様に思うのです。

それは、ただそこにあるだけで、カオスであり調和を保っています。

そう、まるでダンスを踊っている様に。

だからこそ、「生きる事が全てだと」「もっと舞いなさい」と言っている様な気がするのです。

線香花火の様に、人生は一瞬のはかない時間だという事を、なぜ私達は実感できないのでしょうか?

「暑い!暑い!」と叫びながら自分が線香花火である事を忘れ、燃え尽きてしまうだけでしょうか?

見方を変えると、人生は切なく物悲しくもあり、消えて欲しくない名残惜しい花火だと解るはずです。

その気付きこそが、燃え尽きるまでの一瞬の中にある光の雫(しずく)の様な「幸せ」を見せてくれるのです。

 

例外無くこの世の全ての物は壊れ、死を迎えます。

死は新たな誕生の元となります。

大きな存在は、それを見守り誕生に歓喜しているのでしょう。

そして、

「いつ死んでも悔いは無いのかい?」

「やりたい事はやったのかい?」

「言いたい事は伝わったかい?」

「優しくしてあげたかい?」

「自分を見つけたかい?」

 そして

「愛しているよってちゃんと言ったかい?」

と問いかけをしている様に、グルグル地球を回しながらチャンスを与え続けているのかもしれません。

今も時々宇宙(そら)を見上げる度にちっぽけな自分を想い、切なくなってしまうのです。

 

振り返ってみると、「時間が無いよ」と過去の自分に言い聞かせてやりたいと思う時があります。

「なんて時間の無駄遣いをしているんだろう」って。

自分で自分を好きになれなかったり、嫌いになったりと誰にでも一度は抱く感情です。

嫌いなところも好きなところも全て自分だと気付いた時、相手と対等に話せる事もやっと解りました。

どうにもならない感情に悩まされた事も、湧き出てくる苛立ちさえ懐かしく思います。

何か大きな見えない存在に助けを求めている時、それは自分に対して約束をする時かもしれません。

約束を破らないよう見張っていて下さいと。

心の中には

全てがあった

命の秘密も

過去からの声も

無言の指針も

そして

まだ知らぬ可能性も

 

心の中の探求は

寿命という時間を使ってもなお

足りないのだ

気付きという名の明かりを持って

自我を捨て

重荷を落とせ

思っているより

はるかに深い

 

『切なくて』オリジナル曲

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20221028152413

運とは?

片目で世界を見ると二次元で見ている事になる。

すなわち、紙に書かれた世界。

でも、あなたは奥行きや、立体と認識している。

何故なら、脳の経験が生み出しているから。

目が見ているモノ全てが、見ている事にはならない。

脳の中に送られた情報を処理して初めて見た事になるから。

だまし絵も、脳に蓄えられた経験が無ければ、成立しない。

夜中に電柱が幽霊に見えてしまうのも、幽霊の存在を学習してきたからに過ぎない。

気配は、敵から身を守る為の脳の能力であり、人間や動物の顔をそこに見出すことで、危険や食糧確保に結びついている。

第六感もそのような事を指すのだろう。

見ている事が本当かどうかは、解らないのだ。

 

私達人間が見ている世界は本当の世界とは限らない。

それは、捕食の危険や食物の様子、人の顔色を見る為の進化で色が見える範囲が決まっているだけで、

赤外線や紫外線は見る事は出来ない。

しかし昆虫は遥かに人間の目で見える色より広範囲で見る事が出来る。

また他の動物達は夜行性や捕食の為に色数が少なく違った世界を見ているのだ。

昆虫の持つ複眼(沢山の目の集合体)で見る世界は、きっと驚くべき世界かもしれない。

このように見方を変えて見ると解る事だが、私達が信じて疑わないこの世界も、真実ではあるが事実では無いのかもしれない。

人は同じように先入観で見てしまう。

経験や知識、人からの伝聞で色付けされた眼鏡越しに。

本当の事、事実の裏にはいくつもの真実があり、見方によっては事実そのものが歪んでしまう事もある。

例えば、老夫婦がいたとする。ある日「夫が奥さんを殺してしまった」これは事実だ。

動機は介護疲れと妻の懇願による殺人だとする。

「長年付き添った妻を殺すなんてひどい話だ」これは真実だ。

「仲の良い夫婦で、よっぽど辛かった上での事、情状酌量しても良い」これも真実だ。

「例え懇願の上だとしても、誰かに相談すべきで罪は罪」

「もう若くはないから、執行猶予でも良い」等など、事実に対し見る側の背景や道徳観が、真実をいくつも作りだし、受け取る側が注意していないと、「ひどい夫だ」「可哀そうな旦那さんだ」という私的観念で変わっていき、更に伝聞され事実よりも真実に重きを置く事になる。

 

運と不運を考えて見よう。

運については数々の名言があるが、それは名声を得た人達の言葉である。

単純に考えるなら運が良かった人達の事だ。

だから現実に誰にでも当てはまるという事では無い。

例えば学校での先生との出会いで考えると、先生が大好きになる子供と顔も見たくない子供がいるとする。

前者は運があり、後者は不運だと普通は考える。

しかし物事はそんな単純ではない。

大好きな先生を見習い、先生を目指すものの挫折してしまう事もあるし、不運と思っていた子供が、反面教師で素晴らしい先生になる事もある。

 

「運(うん)」とは、その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す言葉として認識されているが、物事が起きその後の経過や結果で「運」「不運」が語られる事が多い。

「この子は生まれながらに運が強い」や「アイツは運を持っている」等、進行形で語られる事もあるが、結局は結果を見ての判断によるものである。

また期待する意味で「777のナンバーの車を見た」とか「虹を見た」……からもその後に起きた良い事と結び付けているだけで、「777」や「虹」が「運」を運んで来たわけでは無い。

ことわざでも「果報は寝て待て」「棚から牡丹餅」「渡りに船」「犬も歩けば棒に当たる」「大吉は凶に還る」等、様々あるがそのほとんどが 戒めの意味である事の方が多い

「生まれつき運が悪い」とか「アイツには運が無かった」という事もあるが、何をもって運不運を決めているかは、本人とはまったく関係の無い事だ。

冒頭の事実と真実と同じで、起きている事と捉え方は人によって変わるモノであり、運を引き寄せる方法や運を良くする……等、世間で取りざたされている事はただの気持ちの問題に過ぎない。

運が良くなる方法が本当にあるならば、紛争や戦争で苦しんでいる人達に教えてあげて欲しい。

 

自ら「運が悪い」と思えばそうだし、「運がいい事が起きる」と信じれば、それなりの関連付けの様な事が起きた時、納得するだけである。

毎日のように交通事故で無くなる人がいると思えば、癌の宣告をされる人もいる。

それは単に「運」が無かったとは言いきれない。

私が尊敬しているジャーナリストでノンフィクション作家の「知の巨人」とも呼ばれていた「立花 隆(たちばな たかし)」氏は、前妻が末期がんで亡くなり、自らも膀胱がんを患っていたが、彼は自分を観察する事をジャーナリストとして記録し、無くなる最後まで執筆し続けていらっしゃった。

彼の知識欲はものすごく、あらゆる分野にその力を発揮して本を出し続けた人だった。

彼の両親はクリスチャンであったが、生前に死んだらすべてが終わるとし、魂やあの世を否定していたとの事だ。

彼は「死んだらゴミ箱にでも捨ててくれ」というくらいで、結局、樹木葬になったが、大病をいくつも患っていたにも関わらずそれをバネに毎日を過ごされていた。

2007年発売の『生、死、神秘体験』の中で「人生というのは、いつでも予期せぬことに満ち満ちている。計画など立てたところで、計画通りの人生など生きられるはずがないのである。もし自分の計画通りの人生を生きた人がいるとしたら、それはたぶん、つまらない人生を生きた人なのだ…(略)」と書いている。


生、死、神秘体験―立花隆対話篇

「運」は本人とはまったく関係のないめぐり合わせであり、自然の中ではその連続が今という時間を作っている。

モノを見る側での解釈が千差万別になるのと同じで、運・不運も見方によっては変わるのだ。

「運」という言葉で巧みに欲という心の隙間に入り込み、お金をつぎ込んでも、結果は運が悪い事になる。

何故なら、人知の及ばぬ事であり、人間の行動や言葉、品物で運が変わる事はありえないからだ。

それでも私達は「運」があると信じ、毎日を過ごしている。

別の見方で、「運」を考えて見ると、来るモノでももらうモノでも無く、待っていても良いとされる「運」は無く、同じ事が「不運」にも言える。

それは前述のことわざが示すように、「準備をしておけ」という事になるのではないだろうか?

すなわち、自分を冷静に見る事と、常に学ぶ姿勢でいる事を指す。

謙虚さも必要になるだろうし、想像力も大切な要素になる。

例えば「果報は寝て待て」は、待っていると運として良い事が起きるという解釈では無く、十分に準備したうえで、焦っては元もこうも無いという戒めという訳だ。

早急に事を進めても、また結果を出す為だけに囚われないようにという事を指している。

スポーツでも勉強でも、毎日の積み重ねによる結果であり、それを運・不運という言葉で片づけてしまうと、それまでのやってきた事は、意味のないものになってしまう。

例えば受験で入りたい学校を目指しているとする。

勿論勉強して、成果を出していかないと受かるものでは無い。

何度もある共通テストで実力を知り、弱みを見つけ強化していくだろう。

それでも、受からない事もある。

その年に受験生が多かったのか?病気で体調を崩してしまったのか?予測していた問題が外れたのか?

それを「不運」として捉えてしまうか、それとも一生懸命やってきたかを振り返る事が出来るかで、その後の道は大きく変わっていく。

どうしても結果を重視しがちだが、自分なりに頑張ったなら褒めてやってもいいくらいだ。

結果はあくまでも結果であり、過程こそが全てなのだ。

人間の脳は、端折(はしょ)りたがる。

怠けたくもなるし、後回しにもしたくなる。

ただそれを良しとするのは、「明日も生きている」という前提での事で、考えて見れば博打の様な事をやっているのと同じなのだ。

先延ばしが出来るのも、悔しい思いが出来るのも、明日があるからだ。

だからこそ、その日その日を無駄に生きる生き方を改めなくてはならない。

何が起きるか解らない前提でこの世に産みだされた事を、今一度考えるべきなのだ。

 

事件や事故、病気で命を落としている人達の事をニュースで見ると、私達は、遠目から「運が悪かった」と思って見ているが、自分に降りかかること等、想像もしていないのだ。

誰でも、余命○○年の宣告や終末期、アルマゲドン、人類滅亡といった事を映画や本などで見たりしてはいるが、すぐに日常の生活に何もなかったように戻ってしまう。

しかし現実には大震災が起き、津波に流され、放射能の恐怖にさらされてきた過去がある事を忘れてはいけないのだ。

「生きる」「生き抜く」という生物の原点に還って物事を見る必要があるし、それ無しに明日は来ない。

 

誰も君の生き方を

共有も否定も肯定も

出来やしない

運も不運もそこになく

その先にある物語は

今の君を踏襲する

ならば手放すがいい

固執も執着も囚われも

新たな君が始まる為に

 

運も不運も、過去形で語られるとおり、人間が自然に対して起きうることを予測したり、確実なものとして理解する事が出来ない為に便宜上生れた言葉であり、実際にはそんなものは無いのだ。

冒頭で片目の事を書いたが、フィリピンに住む義理の息子は、生まれながらに片目が奇形していて見えず、それでも頑張ってフィリピンでは上位とされる大学を卒業した。

イジメられた事も何度もあったと聞いているし、何より母、つまり私の妻は彼が幼少期の頃から日本で働き、側にいる事はほとんどなかった。

フィリピンではドラッグや博打、誘拐や強盗等、日本とは比べられないほど道をそれてしまう要素が多く、特に男はまともな職につける人はほんの一握りしかいない。

その様な環境の中ででもグレずに、勉強してきたのだ。

片目だけで勉強する辛さは、想像もできないがとても大変だったに違いない。

彼は片目でも、両目が見える人達よりもちゃんと世の中を見ているに違いない。

そう、運が無かったのか、はたまた運が良かったかを彼の事例で語ることは出来ないし、どうでも良い事なのだ。

毎日を大切に生きている彼は、自慢の息子という事実だけは確かだ。

 

あえて「運」を味方につけるとしたら、明日は無いという生き方なのかもしれない。

 

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宗教とは?⦅神の存在⦆(3)

幼い頃

ビー玉を透かし見続けていた自分がいた

今起きている事は

本当じゃないんだと思いながら

空想好きの少年とって

神の存在を信じる事はたやすい事で

何かを叶える魔法の様に

ビー玉を見つめていた先にある

虹色の光があなただと

 

もうすっかり歳をとり

ビー玉はただのガラス玉になったけど

何かに守られ見張られて

無言の助言が聞こえてくると

遠い昔に語りかけた

あなたに会えた気がするよ

 

始めにお断りしておきますが、二度の大病と二度の交通事故での長期入院をし、「自分の存在意義」を考えた時期があり、様々な宗教にまつわる本や哲学関係の本等を読んでいましたが、何処にも満足できる答えは載っていませんでした。

アインシュタインが、一つの方程式でこの世界をまとめたかったように、私自身も、人生や生きる意味をまとめて答えられる方式の様な考え方があると信じてきました。

そして、自分なりにどの様な事象や疑問にも答えられる考えを見つけ、今日に至っております。

このブログの記事はその考え方に沿って書いているもので、あくまでも個人的な考え方です。

よって、専門知識等調べはしていますが、不確かな事や不快に思う方がいらっしゃる事も前提として記しています。

また特定の宗教を非難する為でもありません。

ご了承下さい。

kenpa.blue

以前にも書きましたが、もう一度「神」という存在について考えて見ようと思います。

現在、異常気象や戦争といった、人類にとって不安定要素、黙示録の様な状態になっています。

約46億年前から地球はそこにあり、大異変があり、多くの絶滅もありました。

時間という概念が生み出される前は、時間の存在も無く、ただただ、そこにあり、回り続けていただけでした。

やがて人類が誕生し、時間が流れ出し、心を持つ地球上最強の動物として君臨しています。

神という概念は、宗教という形になるまでは、自然現象に起因するものが多くありました。

そして多神教一神教の誕生まで、世界中に神が存在しています。

宗教と形を変え、神の存在や役割も様々な解釈が成され、信ずる神に祈りを捧げています。

宗教を信じていらっしゃる方からすると、罰当たりと言われる事かもしれませんが、それを承知で書かせてもらうと、あくまでも私見ですが、私にとって神という存在はウルトラマン仮面ライダーの様なものです。

茶化すつもりではありません。誤解のない様に。

人間が生み出した、最高の空想科学と言ってもいいかもしれません。

ウルトラマンシリーズや仮面ライダーのストーリー、脚本家たちが描く世界は、欧米の様な正義と悪という単純な描かれ方をしておらず、初期の頃から沖縄の問題や、絶対悪があるのか?人間の傲慢さや欲とは何か?というような話が盛り込まれています。

初代から現役で見てきた私ですが、当時勿論そんな事は考えてもいませんでしたし、単純にヒーローとしての存在でしたが、改めて映像を見ると当時の深い脚本家の想いが伝わってきました。

ヒーローも完璧では無いという事を学んだのも、彼らのお陰です。

いて欲しい存在のヒーロー達は、実際にはいないという事が解るまで、そんなには時間がかかりませんでしたが、今でもいて欲しい存在であるのは変わりませんし、心の中に今も生き続けています。

 

一方で、私自身、全面的に否定している訳ではありません。

アインシュタインは、

「Science without religion is lame, religion without science is blind.」

『宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である』

と言い残していますが、人間の想像を超えた何かの存在がある様に考えています。

すなわち、人間らしさなど持ち合わせていない、大きな力の様なものです。


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

 

この世に生れた途端に息をしなくてはいけませんし、誰かに保護される状態でないと死という選択しかありません。

高度な脳を持つ事で、生き抜く事を選択した人類は、生まれながらに、他の動物に比べ頭が大きいのです。

生れてから死ぬまでは、「苦」の連続なのです。

有害でもある酸素を取り込み、37兆とも言われる細胞の調和を保ち、傷つきやすい皮膚を保護しながら生きているのです。

遥か昔は、自然に対し無防備でなされるままの状態で、食糧難や災害にあう度、災いとして自然の中にコントロールする存在を見い出そうとした結果、神という名前だけでなく、超人的な存在を作り出し信じるようになりました。

苦から逃れたいという気持ちや死を恐れる感情、そして集団として生きていく知恵として宗教が出てきたのです。

戒律も集団をまとめるだけでなく、その地にふさわしい環境、例えば食事の制限や健康維持の意味も含めて役割を担ってきました。

医療が進み、性差や家族といった認識が変化しても、守り続けている宗教もまだあります。

それだけの理由なら良いのですが、人間は権力やお金を欲しがります。

信者としての義務のように寄付を募り、勧誘し、どれほどの力を持っているか誇示したくなるのです。

全ての宗教が同じだとは言いませんが、加えて他の宗教を批判し、自分達の宗教がいかに正しいかを前提としています。

信じる事を非難している訳ではありません。

心のよりどころとしている人達は、私の廻りにも沢山います。

 

人間以外の動物は、ただ受け入れているだけ、というよりただ自分に起きた事すら認識してはいないでしょう。

だから、辛く苦しくても、その原因を探す事も無く、嘆く事も出来ないのです。

捨てられたり、虐待されたりされた犬や猫は、本能から人間を恐れ、恐れから攻撃しようとします。

生き残る為の記憶として残っていますが、次の世代に伝える事は安全か危険かの判断が主で、理由や過程を説明する事は出来ませんから、捕食されたり、理由なく虐待される危険は変わらないのです。

人間が環境を変える事で、動物達全般に計り知れない影響を与えることは勿論有りますが。

ただ人間だけは、過去の事も詳しく知る事も出来、経験しなくとも生き残る為の知識として、蓄積され回避できます。

すなわち、人間という種が生き残る為の知識です。

ただ単に種の存続という事なら、神や宗教は存在していなかったでしょう。

例えば、誰かが亡くなってしまっても、関心を示す事は無いはずです。

人間という種の存続が目的になるので、誰でも良く、代わりがきくからです。

しかし、人間という種という大きなくくりでは無く、自分という個々の存在を自覚し、他人の存在を仲間や敵として認識し出し、そして生まれた訳を探し続けているからこそ、神や宗教が誕生したのです。

人間は一人では生きていけない事はこのブログで何度も書いていますが、いわゆる社会が出来、病気に対する知識や食物の確保や敵からの攻撃に常に警戒する必要が無くなった時点で、個人が大きく顔を出してきます。

この社会が正しいのか、間違っているのか、理想郷なのか、それとも許容すべきかなど考える事もしなくなり、いつか必ず高みの社会を実現するという理想を描き続けているにすぎません。

種の存続は、そうやって人類というくくりでは無く、個人の血の繋がりや民族、宗派へと形を変えてしまったのです。

誰でも生きている限り、辛い事や困難な問題、悲しい思いをしたりしますが、大きな流れの中のほんの一瞬の出来事に過ぎず、もし神が見ているとしても、私達が歩いている時に蟻の存在を気にもしない事と同じで、何もしないし、「蟻に気を付けろ!」と歩き出した足を叩く事すら出来ないのです。

 

その後の宗教による様々な弊害はこのブログで書いていますが、いつの間にか人間は「神」にお願いをするようになってしまいました。

それは一体どうしてでしょうか?

罪悪感があなたの中に生れます。

「私だけが恵まれていても良いのか?」「もっと出来る事があるはず」「もし先祖が悪い事をしているなら罰を受けなければならない」「信じる事で誰もが天国に行けるのに、なぜ分かってくれないのか?」「このような世の中を許すはずがない」「心から信じていないから悪い事が起きる」……!

誰かに罪悪感を植え付ける事は、思っている以上に簡単に出来ます。

困難や不幸が起きる事は、目に見えない「力」の様なものの存在が関与していて、信じていない事が原因だと錯覚させるのです。

そして裁きがあるかのように決断を迫る、言い方は悪いですが脅しの様な文句を並べてきます。

責任を取りたくない気持ちや、誰か責任を取って欲しいという願望が拍車を掛けます。

「私は此処にいます。なぜ答えてくれないのですか?」

それは、委ねているだけであって、現実として捉えていないからです。

 

祈りは「約束」です。

お願いするものではありません。

例えば先祖に祈る時、敬う気持ちも込めての事でしょうが、命を繋いでくれたことに対する、自分の行いを恥じないものとする為です。

前を向き、歩いていく事を誓う為のもので、「助けて下さい」と祈ったところで、誰も聞いてはいません。

気持ちは解りますが、交通安全のお守りステッカーも、そのお金を交通遺児支援団体に寄付する方が、よっぽど効き目があると思います。

勿論、家族の健康や安全を祈りに込める事は、誰もがする事です。

何が起きるか解らないという前提があるからこそ祈るのであって、ならば今を大切にしなさい と言う意味なのです。

息子が幼い頃、散歩途中で拾ったどこにでもある様な小枝を彼からもらった時、その小枝を捨てる事は出来ませんでした。

何か特別なモノのような気がしたのです。

昔から人間は、見るものや感じるものに何かの意味付けをしたがります。

そこに何か特別な力や奇跡といった言葉を当てはめたいのです。

神様や悪魔、魂や霊、天国や地獄など幼い頃から見聞きし、より現実味を帯びて、在りもしないそれらのワードを現実の世界で起きる事に関連付けしてしまうのです。

言い換えれば、不自然な事をやっているという事です。

自然は不規則であり、人間にとって良くも悪くもいろいろな変化をもたらしますが、調和の中で動いてもいます。

時間の流れは人間だけが意識しているにすぎず、自然はただそこに存在し、均等を保とうとします。

生物の死、星の死は、新たな誕生には不可欠で、それがいつ起きるかは時間という観念の無い中では無意味な質問なのです。

宗教は、本来その様な仏教でいう諸行無常

「この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないという事」

を気付かせるものであり、人間も例外では無く、全てがカオスのように見えても大きな調和の中の一部に過ぎず、物事は動いていくもので、固執しても仕方がないと教えるものであり、そこに何かの境界線や上下、すなわち天国や地獄などの存在などは無く、生きている今を大切にする事、すなわち死は必ず訪れ、死後では何も出来ませんよと説いているのです。

マスターと呼ばれた人達の真理は、人も含めこの世のもの全てが「神」であり、その気付きこそが根本で、「心の中を落としなさい」と説くのです。

キリスト教では「神」=「愛」「真理」とも言われています。

だからこそ、完璧なものは存在せず「神」でさえ完璧では無く、その事を認める事こそが、苦の中にある幸せを見い出せる力だと言っているのです。

 

例えば完璧な「愛」は存在しません。

だからこそ今を大切にし、日々変化する心の動きを注意しながら、高め合う事をするべきで、死んでは何も相手にしてあげられません。

「真理」も前述から言うと完璧ではありません。

「真理とは」と言葉で説明できないものだからです。

Goo辞書によると真理とは「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。」と書いてありますが、ただ、正しいとか道理は不変ではありません。

また仏教でも真理を重視してはおらず、生き方そのものを説いています。

例を挙げると前述の「諸行無常」も真理とされているし、西洋でも色々な解釈がありますが、真理を突き詰めたところでそれは真理の一部でしかなく、真理を追究する事こそ真理だとも言われているのです。

この事からも解るように、完璧なものは無いという事です。

教えはこのように、色々な形を変えて伝わるものです。

特に宗教という組織になれば、多かれ少なかれ人間性が加味され易く、本来の目的から逸脱するようなカルトの集団になってしまったり、教えよりも罪悪感による心理を、悪く言えば利用し勧誘する組織になってしまうのです。

私も選挙の時に○○さんをお願いしますと、宗教団体からよく言われますが、彼らは自分で考える事を放棄しているのと同じです。

ですから、悪霊だの、日頃の行いだのと話してくる人は、マスター達の教えを理解していないばかりか、今を生きずに弱さから逃げているだけの人なのです。

そして気を付けなければいけないのは、教祖と言われる人を神格化してしまう事です。

本来マスター達は神格化される事を望んではいません。

何故なら教えを説く為であり、使者もしくは教師の役割を担ってきたからです。

神格化は、独裁者となる危険性があり、「教え」という本来の目的では無い、何かよからぬ裏が潜んでいる事が多いのです。

全ての人が、全ての物が「神」であり、特定の人物を「神」のように崇(あが)める事は、出来るはずが無いのです。

死後や先祖の霊魂の心配よりも、今を大切に生きる事が全てであり、その全てが完璧を目指す「神」そのものなのです。そして後はただ死ぬだけという事です。

 

川のように流れていれば

腐る事は無いだろう

海のように広ければ

波もまた戯れて

木のように動じなければ

鳥も静かに羽を閉じ

森のように深ければ

多くの命が舞を舞う

教えは秘密を隠さずも

そこに見い出す者は無く

只々空虚の息をする

 

生きる事が教えであり

神であり

宗教かもしれません

今を、この瞬間を大切に

それが出来るのは

あなた自身だけ

神が創造したと言われるこの世界。

いわゆるビッグバンから始まったと言われる私達が住む宇宙は、今なお膨張し続けているのです。

それは、私達が想像出来る範囲を、遥かに超えている事でしょう。

まだまだ、神が作ったこの世は未完成なままなのです

 

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友達がいない⦅本当に必要なのか?⦆

今、若い人だけでなく中高年の人、特に男性に友達がいないという人が増えているようです。

昔も今もそれほど変わらない比率だとは思いますが、やはり今の世の中、人との繋がりに飢えている人が多いとも取れます。

結論から言うと友達がいなくても大丈夫です

ニュースでも取り上げられていましたが、お決まりの解決方法ばかりを専門家やアドバイザーが発言しています。

友達を持つ事は大切で、人生を豊かにしてくれるという前提の元「趣味を持つ」とか「近所の人と積極的に話してみる」「居酒屋などで声がけしてみる」「積極的になる」……等など。

やっている人は、とっくにやって楽しんでいます。

言い方は悪いですが、相変わらずくだらないという感想しかありません。

 

本当の友達、すなわち親友に恵まれる人は、世の中そんなに多くありませんし、友達がいない人も沢山います。

友達がいない、出来ないと悩むのは精神的に不安定な時期や、今の生活に物足りなさがあるのか?

一人だと不安?になったり、楽しみの共有をしたりしたいのか?でしょうか。

悩みを聞いてもらったり、相談できたりする友達がいれば心強いし、生活の中で変化が生まれ、寂しさもまぎれるからかもしれません。

また、同じ体験をする事で仲間意識が出来、切磋琢磨し支えになる事もあるでしょう。

特に若い人達にとっては、青春を過す上で大切な存在になります。

ただ、残念ながらその様な人達ばかりでは無く、イジメや消極的な性格、病気や家庭環境などで、友達を見つける機会を奪われてしまった人も沢山、世の中にはいます。

 

一方で、友達との関係ではトラブルもつきものです。

一方的に自分の事ばかり主張していては、相手も不愉快になり離れていくでしょうし、逆もしかりです。

都合の良い時や機嫌の良し悪しで付き合い方が変わる事だってあり得ます。

当然ながら嗜好や思想、思考も変わっていくだろうし、煩わしい存在になる事だって起きてきます。

断りたくても断れない優しい方や、相手のペースに合わせてしまったり、嫌われたくない為に気を使ったりと、いればいるで問題も沢山出てきます。

親友ならば、察して理解してくれるかもしれませんが、なかなかそのような人に巡り合う事は、歳をとるほど難しくなっていきます。

兎に角、友達がいない事が、恥ずかしいとか良くない事や寂しいというイメージを持ちすぎです。

「友達がいれば……」と考える事は、もうやめにしましょう。

 

勿論、若いうちは特に人間関係を学ぶ上で大切な事ではありますが、友達がいなくても立派な人間になった人は、世界中に沢山存在します。

 

私の尊敬するアインシュタイン(Albert Einstein)を始め、

水素や水の合成等の功績があったイギリスの化学者・物理学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ(Henry Cavendish)、

吉村昭の小説『海も暮れきる』でも描かれた俳人「咳をしても一人」という句で有名なの尾崎 放哉(おざき ほうさい)等など、

中には、嫌われ者や変人扱いを受けた人だっているくらいです。

幼少期から友人すらいなかった人や、世捨て人の様な人、他人と会うのを極力避けていた人達です。

歴史的な偉業や偉人として名を知られている人ばかりでなく、宗教者としての修行による10年以上一人で過ごした人や、名も知らぬその様な友達や友人がいなかった人や孤独だった人は、沢山いたでしょう。

彼らに共通しているのは何かに夢中になっていたという事です。

それは時代にもよりますが、文化や芸術等アーティストとして夢を描いている人達、科学や物理を始め研究に没頭している人達だけでなく、生きる事そのものに苦労し、毎日過ごしている人や、病気と闘っている人達に言える事です。

 

想像してみて下さい。

日々、食べるものに困っている生活を。

戦争で、逃げ回っている環境を。

やり遂げたい夢がある事を。

病気と闘っている姿を

誰かを懸命に助けている時を。

 

シンプルに「生きる事」を捉えられれば良いのですが、豊かになればなるほど、不満や悩みは増えていきます。

何故なら余りにも情報がありすぎて、信ぴょう性も含め戸惑うばかりの中、選択肢が増え、叶わない事が増え、比べる事が増え、いつまでもキリが無くなるからです。

ただ、友達の存在は本人にしてみれば深刻な問題でもあり、病んだり、命を絶ってしまう事があるのも事実です。

だからこそ、友達の必要性を改めて考えて欲しいのです。

自分に行動や言動に非がある、すなわちコミュニケーション能力が無いせいと自分を責める事を辞めなければいけません。

友達がいない事を、自分の責任だの、自己改革だとするようなお悩み相談なんか役に立たないし、むしろマイナスになってしまいます

何故なら自己否定を自らしているからです。

あなたは此処にいて、あなたであって、他の誰かではありませんし、代わりになる人もいません。

法を犯すようなことをしない限り、ありのままの自分でいればいいだけの話で、友達を作ろうとして、無理に相手に合わせる様なアプローチは、結局自分を苦しめる事になります。

 

以前、このブログでママ友の事を書きましたが、いなくても私の妻は何ら困った事はありませんでした。

情報集めや助け合いなら良いかも知れませんが、妻に聞くと誰かのうわさや悪口にうんざりしたそうです。

よく、「今度良かったら家に遊びに来て」と言いますが、本心は来られると気を使うので嫌と思っている人の方が多いのが現状でしょう。

学校や職場での同僚は、あくまでも同僚であり、友達ではありませんし、離れれば多くはただの他人に、縁の無い人達になります。

例外もありますが、人望があるとか人気者だったとか、信頼されていたや気さくな性格だからと言って、友達付き合いがあったわけでは無いし、組織の中の一人にすぎなかっただけです。

犯罪の容疑者を取材するニュースなどでよく見かける「おとなしい人だった」「ちゃんと挨拶する人だった」「そんな事をする人には見えなかった」と聞く事が多いと思いますが、私達はほんの一部分しか他人の事を理解していませんし、どんな人間なのか?どういう人間でいて欲しいか?を決める事も出来ません。

まして自分の思うような理想を自分にも他人にも押し付ける事は不可能です。

にも関わらず、理想ばかりに囚われてしまっているのです。

それは、TVやSNS等含めたソーシャルメディアの影響が大きくなった事による弊害とも言えます。

他人の行動を、考え方や生き方を真似たくなってしまったり、本当はあんな人達の様に生きるはずなのにと、今の自分の置かれた立場に納得できない心理が働く事もあるでしょう。

しかし情報発信には、切り取りやフェイク、都合のいい部分や興味を引くような作りといった裏があるのも事実です。

その中での友達という存在の必要性を考えて見ても、上手くいくはずがありません。

見知らぬ人が他人を助けているところを見ると、心が暖かくなります。

財布を拾って届けてくれたり、緊急自動車で走り回り人助けをしてくれている人達を見ると、心からありがたいと思います。

すなわち、本当に友達になって欲しい人達の事です。

決して自慢する為や、自分を大きく見せたりする為の人達ではありません。

神様では無いので、全ての理想的な行動や考えを持っている人はいませんが、近づく事は出来るはずです。

反省や後悔をしても過去を変える事は出来ませんが、未来を変える事は可能です。

寂しいとか楽しみたい等の友達作りの動機を一旦捨てて、誰かを暖かな気持ちにする事が出来るように心掛ける方向に考えを変えてみる事です。

ゴミ拾いでも、挨拶でもいいし、人からの評価を期待しない事柄を実践したいものです。

あなたの優しさは、必ず何物にも代えがたい豊かな気持ちを運んできます。

 

一人でも、友達がいなくても大丈夫です。

人生を楽しむ方法、豊かにする事は、友達作りだけではありません。

実はそこら中にあるのです。

日本は蛇口の水を飲んでも安全で、病気になれば病院に運ばれますし、戦争が無く、交通機関は正確で、無事に帰宅出来る事もそうですし、食べ物にありつけた事や太陽がちゃんと昇った事、誰かに親切にされれば最高です。

ほら!素敵な事でしょう!

当たり前で無い事を、当たり前として過ごさない事です。

このブログでも書きましたが、この世に私達は遊びに来ているのです。

文句を言う為でも、満たされない事に腹を立てる為でもありませんし、あれやこれやと欲しいものを探しに来ているわけでも無く、たとえ手に入ったとしても、あの世に持って行く事は出来ません。

 

それなら夢中になれる事に時間を使って下さい。

何としても生き抜く事に時間を使って下さい。

何より誰かの幸せの為に時間を使って下さい。

友達作りに悩む時間すらもったいないくらい、

人生はあっという間ですよ!!

 

SNS等で悩みの共有や相談、出会い系サイトが沢山ありますが、

うまい話は絶対にありませんので、気を付けるようにして下さい。

寂しさのあまり、つい気を許し、知らぬ間に偽サイトに誘導され口座やカード情報入力してしまう可能性があります。

また、なりすましや「運勢」「運命」等といったキーワードの言葉で誘って来るサイトやカルト的宗教は沢山あります。

当たり前ですが「運」や「友達」は、お金では買えません。

お金に関する話が出てきたら、相手にせずアクセスをやめ消してしまいましょう。

 

また、ソーシャルネットワークによる交流も、それ自体は悪い事ではありませんが、知らない人とのやり取りでは思わぬ発言をしたり、不愉快にさせられたりする事もあるという前提でやって下さい。

知らない間に、自身が悪い方向に向けられる可能性や、逆に相手を不愉快にさせてしまう事も、頭に入れておいて利用するようにして下さいね。

 

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