心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

戦争⦅日本の選択⦆(1)

昨今の世界情勢のニュースを見る度、本当に暗い気持ちになってしまいます。

宗教や民族がらみの紛争も一向に終わる気配がありません。           

権威主義自由主義独裁国家に民主国家とハッキリとした色分けがグラデーションの様になってしまい、人々は日々の暮らしを豊かにしてくれるという甘い言葉を話す政治家や権力者を支持するようになっています。

そしてひとたび権力を握ると、手放したくないのか強硬な手段に出る事も当たり前の様に報道されています。

「欲」という悪魔の側面がそうさせるのでしょう。

一方で、戦争というモノが身近に感じられる様な情報が日々更新され、過去の歴史からの警告を無視するかのように、防衛や軍事力強化を唱える人が増えています。

 

戦場のピアニスト」「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」等の有名作を始め、「私の親友、アンネ・フランク」「ホロコーストの罪人」「黄色い星の子供たち」「杉原千畝 スギハラチウネ」「ふたつの名前を持つ少年」「エスケープ ナチスからの逃亡」等などと、第二次世界大戦下の悲惨な運命、特にユダヤ人に対する非道さを描いた作品は本当に沢山ありますし、色々な国で作られています。

映画好きの私は、時間があれば事実として作られた映画をメインに、以前観たものも含め少しずつ見直していました。

真実を元に、描かれた作品の多くは、どれも脚色されているとはいえ、見た後は、喪失感や無力感に襲われます。

戦争は、普通の人々を悪魔に変え、天使にもします。

映画を観ると、若い時に観た時と今改めて見直した時とは、感じ方に大きく変化が有りました。

 

例えばもし、加害者だったら?

もし、ユダヤ人ではない被害者だったら?

もし、当事者のユダヤ人だったら?と。

自分を、色々な立場に置き換えて観ていました。

 

地下組織に入って、武器の調達やビラを刷ったり、匿(かくま)ったり出来るか?

危険を冒してまで、助ける事が自分に出来るか、甚(はなは)だ疑問です。

拷問や殺されるという恐怖の中、仲間を売り、情報を売ってまでも、生き延びようとしたに違いありません。

平気で同胞からひったくり、落ちたスープ状の食べ物に顔をつけ、むしゃぶるように舐めたり、バケツに貯まった水を飲んだりしている人達の姿は、情けなさや虚しさより、正に自身に置き換えて見ている様なイヤな感覚になってしまいました。

何をしても必死で生きようとした人々がそこにいたのです。

もし自分だったら?

どう考えても、そんな勇気は私には無いと思うのです。

自分の家族の為なら、どんな拷問をうけようが、殺されてもいいと思っているのにです。

この境界線は、何だろうか?

映画の中の人々は、勿論ほんの一握り事例で、歴史に埋もれた誰にも知られていない勇気ある行動をした人々が、その裏には沢山いました。

人間の中にある残酷さや、残虐性、悪魔になる危うさは、誰にでもあるのだろうか?

日常的に人が殺されていく事が、当たり前になった時、慣れるものなのか?

自分は、どう行動するだろうかと。

たぶん、どの立場にいても、権力に迎合した態度をとり、意気地無しであり、情けない弱い人間であったと思いうのです。

 

このブログで実弟孤独死の事を書きましたが、発見されるまで一週間経っていました。

風呂場で亡くなっていたのですが、運ばれた後の風呂場の色と匂いは忘れられません。

一生懸命に掃除していたのですが、匂いも含めて綺麗にはなりませんでした。

戦争時にはそれが当たり前の光景として見る事になると思うと、人間って何だろうと思ってしまいます。

 

当然、戦後生まれの私には戦争の経験も無ければ、極限に追い詰められる様な体験も有りません。

亡くなった戦争経験をした父も、一切その事を話す事はありませんでした。

この地球上で悲惨極まりない争いが、今もずっと何処かで継続している事と、歴史から学ぶ人々の苦悩を考えた時、今自分が置かれている平和な環境とのギャップがあまりに大きく違い、正直戸惑ってしまいます。

それは、何処か遠い国の話で実感が無く無力感もありますが、いくら想像しても冷めた自分がいる事の情けなさです。

 

戦争を体験された方が高齢となり、お亡くなりになった方が増え、実体験を直接聞く事はほぼ不可能になってきました。

残された資料や映像等出来る限り見るようにしてはいますが、実感が湧いてこない自分がいます。

ただ、想像力を持っている私達は、身近な事として感じることは出来なくとも、同じような辛く悲しい体験をしてはならないという事は解ります。

自宅では無く、病院で亡くなる人は8割近くになり、「死」を見、感じる機会がどんどん減っています。

それは人間に限らず、食用としての家畜も同じで、肉として認識しているだけで、その裏にある殺傷まで想いが至りません。

またペットの可愛い動画や写真を見る機会は沢山ありますが、悪質なブリーダーやペットショップ業者、ペットショップそのもの存在意義を考えたり、捨て猫や犬といったペットの殺傷処分も見たり、考えたりする事はほとんど有りません。

すなわち「死」に対する問いかけや、死ぬという事の在り様を考える機会が無いまま、私達は今日に至っています。

 

死は誰にでも訪れる事です。

本来「死」は自然の法則に従って訪れるものです。

自然の災害による「死」も含まれるでしょう。

が、人間が人間を殺す事で「死」をもたらし、もしくは苦しみや痛みを、当事者だけでなく、関わった全ての人に降りかかる「戦争」という人間だけが作り出せる「罪」は、自然の在り方からは大きく逸脱した決して許されるものでは無く、忘れてはいけないし、考え続ける必要が私達にはあります。

この「罪」は憎しみという更に深い記憶として、人々に何千年に渡る遺恨を植え付けてしまう事になります。

どんな理由があるにせよ、人が人を死に至らしめ、悲しみをまき散らす事は、一番やってはいけない事です。

 

kenpa.blue

 

クリント・イーストウッド((Clinton Eastwood)監督2006年作品の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』で描かれていたように、戦争は、味方ばかりに悲しみをもたらすものでは無く、敵となった人も同じ思いをさせる事になります。

そして、何より人間である所以(ゆえん)の尊厳や思いやりを壊し、集団心理と極限状態による普通の人を悪魔のように非人道的な事までさせてしまい、非常に残忍な人を沢山生む事にもなります。

それは、個人の責任でどうにかなるモノでは無く、正義や愛国心という聞こえの良い言葉で片付けられる事ではありません。

 

日本も先の戦争で被害を受け、また与えた国です。

残忍な事をやってきたのも事実です。

事実関係はまだうやむやのまま今日に至っていますが、第二次世界大戦時日本軍731部隊が、中国東北部ハルビンの郊外にある施設で細菌兵器の開発を秘密部隊として存在し、人体実験を行っていたとされ、囚人は頭を丸坊主に刈られ、「マルタ」と呼ばれていたという事です。 

細菌の研究では、主としてペスト菌コレラ菌、パラチフス菌を扱っていて、ノミ爆弾なる細菌兵器も開発していました。(瀬戸物など割れやすい器の中に入れて空から落とす)

1988年に公開された香港映画、『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌』(黑太陽731、英題:Men Behind The Sun・The Devil 731)も制作されています。


蚤と爆弾 (文春文庫)

私の記憶では学校で習った事は一切ありません。が、ノンフィクション作家の吉村昭著「蚤と爆弾」でその事を知り衝撃を受けました。

 

いくらやってはいけない事の取り決め国際法の批准(ひじゅん)や、条約を結んでも、人間の中の悪魔が顔を出し、必ず騒ぎ出し、反故(ほご)にする人達が出てくるのです。

それは特別な人では無く、ごく普通の人達の中からも現れてきます。

またアメリカのベトナムイラクといった戦争地からの帰還兵にはPTSD心的外傷後ストレス障害)やうつ病が見られ、自殺したり何年も精神的に苦しんだりしている人が多くいます。

それは本人だけでなく、周りの親族にも悲惨な影響を与えているのです。

また日本でも例外では無く2015年安保法制をめぐる衆院の特別委員会で、志位和夫共産党委員長)の質問に答えて政府が認めた発言に「'03~'09年にイラクに派遣された自衛隊員のうち、在職中に自殺したと認定された隊員は29人。うち4人はイラク派遣が原因だった」「'01~'07年のテロ特措法でインド洋での給油活動に参加した隊員のうち、同様に自殺と認定された隊員は25人」と報告されているのです。

つまり、インド洋・イラクに派遣された自衛隊員のうち、合わせて54人もの隊員が、自ら命を絶った事実があるのです。

 

戦争を始めれば、家族の歴史は勿論の事、今までの歴史の警告も全てが無駄になってしまうのです。

軍隊にしろ自衛隊にしろ、出来る範囲で透明性を求められるはずです。

何故なら権力を持っている組織である以上、歯止めが必要だからです。

にも関わらず、政府の拡大解釈によって日本では2016年南スーダンPKOに参加し、

自衛隊海外派遣部隊がイラク南スーダンで日報をとりまとめていたにもかかわらず、防衛省自衛隊が日本国民や国会に対してその存在を隠蔽していた一連の疑惑問題があった事も、もう忘れてしまっています。

 

「もし攻められるような事になったら、どうする?」

「そんな甘ちょろい事では無く、考えておかなくてはダメだ」

「現実を見ろ」という人達が沢山いる事も解っています。

現在アメリカでは、日本の核保有容認の話をする人達が出てきています。

トランプ前大統領(否認しているとも発言)や米軍事アナリスト、アンダース・コー博士、フランスの人口歴史学者エマニュエル・トッド氏等。

そして日本の中からも前総理を始め議員からも議論すべきとの声を聞きますし、核シェアリングも含めた、核保有を容認する様な発言、自民党の元首相や一部議員、ジャーナリスト達が増えてきているように感じます。

日本の周辺国は核を持つ国が多いのも確かですし、核の傘が抑止力になっているのかもしれません。

「かも」というのは本当に抑止に繋がっているのかは今の世界情勢を見ても危ういのです。

持たない国は、核の脅しを突き付けられ、同盟国はその脅しに何も出来ない事も解ってきました。

誰も自ら核のボタンを押したくはないでしょうし、緊張状態がずっと続くのです。

 

今の日本の技術力からすると、原料もあり核武装は可能でしょう。

勿論ロケット製造は国産でも開発されてはいますが、もしそうなれば、せかされて顔色をうかがう国ですから廃棄が近い固形燃料型のロケットをアメリカから高く売りつけられるかもしれません。

歴史から見ても、アメリカはしたたかな国で、自国の利益になるよう常に考えているからです。

 

果たして日本はどの方向に行こうとしているのでしょうか?

核の傘にいる事の大切さや重要性を軽々しく発言して欲しいとは思いませんし、何より傘の下という立場での物言えぬ弱腰な姿勢こそ危険なのです。

憲法改正や核三原則や敵基地攻撃を含めた政府の拡大解釈をやる前に考えなければいけない事が沢山あるはずです。

日本が核を持っていない事で逆に信用、信頼されている部分は無いのか?

アメリカの後ろ盾が本当に国益になっているのか?

割高な武器装備を買わされ、軍需産業をもうけさせる意図はないのか?

(例ですがPAC-3パックスリーと言われる迎撃ミサイルは、1発8億円もかかります)

そもそも人殺しの武器製造をこのまましてもいいのでしょうか?

日本でも軍需産業に携わっている企業は、大手も含め沢山存在しています。

戦争というワードがある限り、無くならないでしょうし、世界にマーケットを広げれば、莫大な利益につながるかもしれません。

ウクライナ戦争でもその実態が解るはずです。

他国に日本製の武器を買わせて良いのでしょうか?

ならば殺す武器に「MADE IN JAPAN」と大きく表記すべきです

 

沖縄の基地問題や1995年の沖縄米兵少女暴行事件(この事での地位協定は改善されたが改正では無い)を始め、コロナ対策でも露見した米軍の運用に国内法が適用されない日本の地位協定の見直し、被爆国としての役割等、徹底的に検証し議論を尽くす事を先にやるべきです。

考えれば解る事ですが、友好国、同盟国という側面とその裏にある戦略とは別物であるという事。

そして口先で終わるのか、先頭に立って戦ってくれるのかは、誰にも解りません。

どの国も自国民を優先するのが当たり前ですから。

ただ言えるのは戦争が始まれば必ず全てが終わりになります。

 

アインシュタインの予言として、

「I know not with what weapons World War III will be fought, but World War IV will be fought with sticks and stones. 」

『何の武器で第三次世界大戦が戦われるのかは知らないが、第四次世界大戦は杖と石で戦われるだろう。』

すなわち、これから起きるかもしれない世界的な大戦後、人類は滅んでいるかもしれないのです。

 

戦争⦅日本の選択⦆(2)へ続く

 

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切なくて

幼少期にはTVのヒーローに憧れ、青年期は実現しそうな映画の主人公やドラマに出てくる主人公に自分の未来を投影させていた。

20代、30代の頃は、それでも夢を追いかけ、実現させる為の余力もあったし、周囲の動向などどうでも良かった。

同年代が次々と就職していく中、髪を伸ばし好きな事をやってきたのだが、自分の理想とする将来像がどんどん遠くに離れる様に感じ始め、と同時に50代以降途方に暮れている自分を想像して落ち込んだものだ。

挫折し、失望し、無力感にさいなまれる。

当たり前だが、一足飛びに自分が理想とする人物や生活様式にはたどり着けない。

だんだんと限界やタイムリミットを設けるようになっていったが、焦りと共にきっとどこかで一変するような期待もあった。

それは、将来の自分の姿を見たくないという逃げだったのかもしれない。

バブル期が終わった事を横目で見ながら、焦りだしたのは言うまでもない。

上を見ても下を見てもキリがない。

普通と言われるような将来を描かなかった私。

何の疑問も持たずにレールの上を進みたくなかったささやかな抵抗だった。

それは、人生や生まれた意味という疑問が常に頭の中にあり、何をやっても見つからず、誰も答えを教えてくれなかったからかもしれない。

何より自分で見つける事が出来ないもどかしさに、大切な時間を使ってしまった。

最近、夢の中に過去に出会った人達が日替わりで出てくる。

起きた途端「あの人とも知り合いだったなぁ」という記憶ぐらいで、ストーリーも無茶苦茶だし、時代も交差している。

しばらくボーっとした後、「そういえば、あの時こうやっておけばよかった」と夢に出てきた人を思い出し、後悔が頭をよぎる様になった。

勿論、自分にとっては会いたくない人も出てくる。

「今の私ならガツンと言えるのになぁ~」等と、これも後悔だ。

考えて見ると、様々な出会いがあった。

自分の人生に関わった人達は、誰一人欠けても今の自分は存在していない。

終わりよければすべて良しという事だろうが、その時々では悩みや苦しみがあり、自身も含め人との関わり合いの難しさに悩んだものだ。

どうしようもない無力感や、焦り

やるせなさに襲われて

答え探しの旅はいつまでか

自分の存在が、あまりに薄っぺらで

厄介な思考は、行き場のない想いを影として

夜な夜な張り付いては、殴りかかるのだ

一体、誰と戦っているのか

自分は、何処にいるのか

自分は、何処にいくのか

空回りする心は

ひたすら誰かを求めている

会いたい

話してみたい

心の空虚を満たすほどの

あなたの言葉の海に溺れたい

切ないこの想いを吐き出して

 

誰でも悩み苦しみ、怒り泣いたりしながら人生を生きています。

大きな存在が、それを上の方から覗き込んでいる様に思うのです。

それは、ただそこにあるだけで、カオスであり調和を保っています。

そう、まるでダンスを踊っている様に。

だからこそ、「生きる事が全てだと」「もっと舞いなさい」と言っている様な気がするのです。

線香花火の様に、人生は一瞬のはかない時間だという事を、なぜ私達は実感できないのでしょうか?

「暑い!暑い!」と叫びながら自分が線香花火である事を忘れ、燃え尽きてしまうだけでしょうか?

見方を変えると、人生は切なく物悲しくもあり、消えて欲しくない名残惜しい花火だと解るはずです。

その気付きこそが、燃え尽きるまでの一瞬の中にある光の雫(しずく)の様な「幸せ」を見せてくれるのです。

 

例外無くこの世の全ての物は壊れ、死を迎えます。

死は新たな誕生の元となります。

大きな存在は、それを見守り誕生に歓喜しているのでしょう。

そして、

「いつ死んでも悔いは無いのかい?」

「やりたい事はやったのかい?」

「言いたい事は伝わったかい?」

「優しくしてあげたかい?」

「自分を見つけたかい?」

 そして

「愛しているよってちゃんと言ったかい?」

と問いかけをしている様に、グルグル地球を回しながらチャンスを与え続けているのかもしれません。

今も時々宇宙(そら)を見上げる度にちっぽけな自分を想い、切なくなってしまうのです。

 

振り返ってみると、「時間が無いよ」と過去の自分に言い聞かせてやりたいと思う時があります。

「なんて時間の無駄遣いをしているんだろう」って。

自分で自分を好きになれなかったり、嫌いになったりと誰にでも一度は抱く感情です。

嫌いなところも好きなところも全て自分だと気付いた時、相手と対等に話せる事もやっと解りました。

どうにもならない感情に悩まされた事も、湧き出てくる苛立ちさえ懐かしく思います。

何か大きな見えない存在に助けを求めている時、それは自分に対して約束をする時かもしれません。

約束を破らないよう見張っていて下さいと。

心の中には

全てがあった

命の秘密も

過去からの声も

無言の指針も

そして

まだ知らぬ可能性も

 

心の中の探求は

寿命という時間を使ってもなお

足りないのだ

気付きという名の明かりを持って

自我を捨て

重荷を落とせ

思っているより

はるかに深い

 

『切なくて』オリジナル曲

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運とは?

片目で世界を見ると二次元で見ている事になる。

すなわち、紙に書かれた世界。

でも、あなたは奥行きや、立体と認識している。

何故なら、脳の経験が生み出しているから。

目が見ているモノ全てが、見ている事にはならない。

脳の中に送られた情報を処理して初めて見た事になるから。

だまし絵も、脳に蓄えられた経験が無ければ、成立しない。

夜中に電柱が幽霊に見えてしまうのも、幽霊の存在を学習してきたからに過ぎない。

気配は、敵から身を守る為の脳の能力であり、人間や動物の顔をそこに見出すことで、危険や食糧確保に結びついている。

第六感もそのような事を指すのだろう。

見ている事が本当かどうかは、解らないのだ。

 

私達人間が見ている世界は本当の世界とは限らない。

それは、捕食の危険や食物の様子、人の顔色を見る為の進化で色が見える範囲が決まっているだけで、

赤外線や紫外線は見る事は出来ない。

しかし昆虫は遥かに人間の目で見える色より広範囲で見る事が出来る。

また他の動物達は夜行性や捕食の為に色数が少なく違った世界を見ているのだ。

昆虫の持つ複眼(沢山の目の集合体)で見る世界は、きっと驚くべき世界かもしれない。

このように見方を変えて見ると解る事だが、私達が信じて疑わないこの世界も、真実ではあるが事実では無いのかもしれない。

人は同じように先入観で見てしまう。

経験や知識、人からの伝聞で色付けされた眼鏡越しに。

本当の事、事実の裏にはいくつもの真実があり、見方によっては事実そのものが歪んでしまう事もある。

例えば、老夫婦がいたとする。ある日「夫が奥さんを殺してしまった」これは事実だ。

動機は介護疲れと妻の懇願による殺人だとする。

「長年付き添った妻を殺すなんてひどい話だ」これは真実だ。

「仲の良い夫婦で、よっぽど辛かった上での事、情状酌量しても良い」これも真実だ。

「例え懇願の上だとしても、誰かに相談すべきで罪は罪」

「もう若くはないから、執行猶予でも良い」等など、事実に対し見る側の背景や道徳観が、真実をいくつも作りだし、受け取る側が注意していないと、「ひどい夫だ」「可哀そうな旦那さんだ」という私的観念で変わっていき、更に伝聞され事実よりも真実に重きを置く事になる。

 

運と不運を考えて見よう。

運については数々の名言があるが、それは名声を得た人達の言葉である。

単純に考えるなら運が良かった人達の事だ。

だから現実に誰にでも当てはまるという事では無い。

例えば学校での先生との出会いで考えると、先生が大好きになる子供と顔も見たくない子供がいるとする。

前者は運があり、後者は不運だと普通は考える。

しかし物事はそんな単純ではない。

大好きな先生を見習い、先生を目指すものの挫折してしまう事もあるし、不運と思っていた子供が、反面教師で素晴らしい先生になる事もある。

 

「運(うん)」とは、その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す言葉として認識されているが、物事が起きその後の経過や結果で「運」「不運」が語られる事が多い。

「この子は生まれながらに運が強い」や「アイツは運を持っている」等、進行形で語られる事もあるが、結局は結果を見ての判断によるものである。

また期待する意味で「777のナンバーの車を見た」とか「虹を見た」……からもその後に起きた良い事と結び付けているだけで、「777」や「虹」が「運」を運んで来たわけでは無い。

ことわざでも「果報は寝て待て」「棚から牡丹餅」「渡りに船」「犬も歩けば棒に当たる」「大吉は凶に還る」等、様々あるがそのほとんどが 戒めの意味である事の方が多い

「生まれつき運が悪い」とか「アイツには運が無かった」という事もあるが、何をもって運不運を決めているかは、本人とはまったく関係の無い事だ。

冒頭の事実と真実と同じで、起きている事と捉え方は人によって変わるモノであり、運を引き寄せる方法や運を良くする……等、世間で取りざたされている事はただの気持ちの問題に過ぎない。

運が良くなる方法が本当にあるならば、紛争や戦争で苦しんでいる人達に教えてあげて欲しい。

 

自ら「運が悪い」と思えばそうだし、「運がいい事が起きる」と信じれば、それなりの関連付けの様な事が起きた時、納得するだけである。

毎日のように交通事故で無くなる人がいると思えば、癌の宣告をされる人もいる。

それは単に「運」が無かったとは言いきれない。

私が尊敬しているジャーナリストでノンフィクション作家の「知の巨人」とも呼ばれていた「立花 隆(たちばな たかし)」氏は、前妻が末期がんで亡くなり、自らも膀胱がんを患っていたが、彼は自分を観察する事をジャーナリストとして記録し、無くなる最後まで執筆し続けていらっしゃった。

彼の知識欲はものすごく、あらゆる分野にその力を発揮して本を出し続けた人だった。

彼の両親はクリスチャンであったが、生前に死んだらすべてが終わるとし、魂やあの世を否定していたとの事だ。

彼は「死んだらゴミ箱にでも捨ててくれ」というくらいで、結局、樹木葬になったが、大病をいくつも患っていたにも関わらずそれをバネに毎日を過ごされていた。

2007年発売の『生、死、神秘体験』の中で「人生というのは、いつでも予期せぬことに満ち満ちている。計画など立てたところで、計画通りの人生など生きられるはずがないのである。もし自分の計画通りの人生を生きた人がいるとしたら、それはたぶん、つまらない人生を生きた人なのだ…(略)」と書いている。


生、死、神秘体験―立花隆対話篇

「運」は本人とはまったく関係のないめぐり合わせであり、自然の中ではその連続が今という時間を作っている。

モノを見る側での解釈が千差万別になるのと同じで、運・不運も見方によっては変わるのだ。

「運」という言葉で巧みに欲という心の隙間に入り込み、お金をつぎ込んでも、結果は運が悪い事になる。

何故なら、人知の及ばぬ事であり、人間の行動や言葉、品物で運が変わる事はありえないからだ。

それでも私達は「運」があると信じ、毎日を過ごしている。

別の見方で、「運」を考えて見ると、来るモノでももらうモノでも無く、待っていても良いとされる「運」は無く、同じ事が「不運」にも言える。

それは前述のことわざが示すように、「準備をしておけ」という事になるのではないだろうか?

すなわち、自分を冷静に見る事と、常に学ぶ姿勢でいる事を指す。

謙虚さも必要になるだろうし、想像力も大切な要素になる。

例えば「果報は寝て待て」は、待っていると運として良い事が起きるという解釈では無く、十分に準備したうえで、焦っては元もこうも無いという戒めという訳だ。

早急に事を進めても、また結果を出す為だけに囚われないようにという事を指している。

スポーツでも勉強でも、毎日の積み重ねによる結果であり、それを運・不運という言葉で片づけてしまうと、それまでのやってきた事は、意味のないものになってしまう。

例えば受験で入りたい学校を目指しているとする。

勿論勉強して、成果を出していかないと受かるものでは無い。

何度もある共通テストで実力を知り、弱みを見つけ強化していくだろう。

それでも、受からない事もある。

その年に受験生が多かったのか?病気で体調を崩してしまったのか?予測していた問題が外れたのか?

それを「不運」として捉えてしまうか、それとも一生懸命やってきたかを振り返る事が出来るかで、その後の道は大きく変わっていく。

どうしても結果を重視しがちだが、自分なりに頑張ったなら褒めてやってもいいくらいだ。

結果はあくまでも結果であり、過程こそが全てなのだ。

人間の脳は、端折(はしょ)りたがる。

怠けたくもなるし、後回しにもしたくなる。

ただそれを良しとするのは、「明日も生きている」という前提での事で、考えて見れば博打の様な事をやっているのと同じなのだ。

先延ばしが出来るのも、悔しい思いが出来るのも、明日があるからだ。

だからこそ、その日その日を無駄に生きる生き方を改めなくてはならない。

何が起きるか解らない前提でこの世に産みだされた事を、今一度考えるべきなのだ。

 

事件や事故、病気で命を落としている人達の事をニュースで見ると、私達は、遠目から「運が悪かった」と思って見ているが、自分に降りかかること等、想像もしていないのだ。

誰でも、余命○○年の宣告や終末期、アルマゲドン、人類滅亡といった事を映画や本などで見たりしてはいるが、すぐに日常の生活に何もなかったように戻ってしまう。

しかし現実には大震災が起き、津波に流され、放射能の恐怖にさらされてきた過去がある事を忘れてはいけないのだ。

「生きる」「生き抜く」という生物の原点に還って物事を見る必要があるし、それ無しに明日は来ない。

 

誰も君の生き方を

共有も否定も肯定も

出来やしない

運も不運もそこになく

その先にある物語は

今の君を踏襲する

ならば手放すがいい

固執も執着も囚われも

新たな君が始まる為に

 

運も不運も、過去形で語られるとおり、人間が自然に対して起きうることを予測したり、確実なものとして理解する事が出来ない為に便宜上生れた言葉であり、実際にはそんなものは無いのだ。

冒頭で片目の事を書いたが、フィリピンに住む義理の息子は、生まれながらに片目が奇形していて見えず、それでも頑張ってフィリピンでは上位とされる大学を卒業した。

イジメられた事も何度もあったと聞いているし、何より母、つまり私の妻は彼が幼少期の頃から日本で働き、側にいる事はほとんどなかった。

フィリピンではドラッグや博打、誘拐や強盗等、日本とは比べられないほど道をそれてしまう要素が多く、特に男はまともな職につける人はほんの一握りしかいない。

その様な環境の中ででもグレずに、勉強してきたのだ。

片目だけで勉強する辛さは、想像もできないがとても大変だったに違いない。

彼は片目でも、両目が見える人達よりもちゃんと世の中を見ているに違いない。

そう、運が無かったのか、はたまた運が良かったかを彼の事例で語ることは出来ないし、どうでも良い事なのだ。

毎日を大切に生きている彼は、自慢の息子という事実だけは確かだ。

 

あえて「運」を味方につけるとしたら、明日は無いという生き方なのかもしれない。

 

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宗教とは?⦅神の存在⦆(3)

幼い頃

ビー玉を透かし見続けていた自分がいた

今起きている事は

本当じゃないんだと思いながら

空想好きの少年とって

神の存在を信じる事はたやすい事で

何かを叶える魔法の様に

ビー玉を見つめていた先にある

虹色の光があなただと

 

もうすっかり歳をとり

ビー玉はただのガラス玉になったけど

何かに守られ見張られて

無言の助言が聞こえてくると

遠い昔に語りかけた

あなたに会えた気がするよ

 

始めにお断りしておきますが、二度の大病と二度の交通事故での長期入院をし、「自分の存在意義」を考えた時期があり、様々な宗教にまつわる本や哲学関係の本等を読んでいましたが、何処にも満足できる答えは載っていませんでした。

アインシュタインが、一つの方程式でこの世界をまとめたかったように、私自身も、人生や生きる意味をまとめて答えられる方式の様な考え方があると信じてきました。

そして、自分なりにどの様な事象や疑問にも答えられる考えを見つけ、今日に至っております。

このブログの記事はその考え方に沿って書いているもので、あくまでも個人的な考え方です。

よって、専門知識等調べはしていますが、不確かな事や不快に思う方がいらっしゃる事も前提として記しています。

また特定の宗教を非難する為でもありません。

ご了承下さい。

kenpa.blue

以前にも書きましたが、もう一度「神」という存在について考えて見ようと思います。

現在、異常気象や戦争といった、人類にとって不安定要素、黙示録の様な状態になっています。

約46億年前から地球はそこにあり、大異変があり、多くの絶滅もありました。

時間という概念が生み出される前は、時間の存在も無く、ただただ、そこにあり、回り続けていただけでした。

やがて人類が誕生し、時間が流れ出し、心を持つ地球上最強の動物として君臨しています。

神という概念は、宗教という形になるまでは、自然現象に起因するものが多くありました。

そして多神教一神教の誕生まで、世界中に神が存在しています。

宗教と形を変え、神の存在や役割も様々な解釈が成され、信ずる神に祈りを捧げています。

宗教を信じていらっしゃる方からすると、罰当たりと言われる事かもしれませんが、それを承知で書かせてもらうと、あくまでも私見ですが、私にとって神という存在はウルトラマン仮面ライダーの様なものです。

茶化すつもりではありません。誤解のない様に。

人間が生み出した、最高の空想科学と言ってもいいかもしれません。

ウルトラマンシリーズや仮面ライダーのストーリー、脚本家たちが描く世界は、欧米の様な正義と悪という単純な描かれ方をしておらず、初期の頃から沖縄の問題や、絶対悪があるのか?人間の傲慢さや欲とは何か?というような話が盛り込まれています。

初代から現役で見てきた私ですが、当時勿論そんな事は考えてもいませんでしたし、単純にヒーローとしての存在でしたが、改めて映像を見ると当時の深い脚本家の想いが伝わってきました。

ヒーローも完璧では無いという事を学んだのも、彼らのお陰です。

いて欲しい存在のヒーロー達は、実際にはいないという事が解るまで、そんなには時間がかかりませんでしたが、今でもいて欲しい存在であるのは変わりませんし、心の中に今も生き続けています。

 

一方で、私自身、全面的に否定している訳ではありません。

アインシュタインは、

「Science without religion is lame, religion without science is blind.」

『宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である』

と言い残していますが、人間の想像を超えた何かの存在がある様に考えています。

すなわち、人間らしさなど持ち合わせていない、大きな力の様なものです。


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

 

この世に生れた途端に息をしなくてはいけませんし、誰かに保護される状態でないと死という選択しかありません。

高度な脳を持つ事で、生き抜く事を選択した人類は、生まれながらに、他の動物に比べ頭が大きいのです。

生れてから死ぬまでは、「苦」の連続なのです。

有害でもある酸素を取り込み、37兆とも言われる細胞の調和を保ち、傷つきやすい皮膚を保護しながら生きているのです。

遥か昔は、自然に対し無防備でなされるままの状態で、食糧難や災害にあう度、災いとして自然の中にコントロールする存在を見い出そうとした結果、神という名前だけでなく、超人的な存在を作り出し信じるようになりました。

苦から逃れたいという気持ちや死を恐れる感情、そして集団として生きていく知恵として宗教が出てきたのです。

戒律も集団をまとめるだけでなく、その地にふさわしい環境、例えば食事の制限や健康維持の意味も含めて役割を担ってきました。

医療が進み、性差や家族といった認識が変化しても、守り続けている宗教もまだあります。

それだけの理由なら良いのですが、人間は権力やお金を欲しがります。

信者としての義務のように寄付を募り、勧誘し、どれほどの力を持っているか誇示したくなるのです。

全ての宗教が同じだとは言いませんが、加えて他の宗教を批判し、自分達の宗教がいかに正しいかを前提としています。

信じる事を非難している訳ではありません。

心のよりどころとしている人達は、私の廻りにも沢山います。

 

人間以外の動物は、ただ受け入れているだけ、というよりただ自分に起きた事すら認識してはいないでしょう。

だから、辛く苦しくても、その原因を探す事も無く、嘆く事も出来ないのです。

捨てられたり、虐待されたりされた犬や猫は、本能から人間を恐れ、恐れから攻撃しようとします。

生き残る為の記憶として残っていますが、次の世代に伝える事は安全か危険かの判断が主で、理由や過程を説明する事は出来ませんから、捕食されたり、理由なく虐待される危険は変わらないのです。

人間が環境を変える事で、動物達全般に計り知れない影響を与えることは勿論有りますが。

ただ人間だけは、過去の事も詳しく知る事も出来、経験しなくとも生き残る為の知識として、蓄積され回避できます。

すなわち、人間という種が生き残る為の知識です。

ただ単に種の存続という事なら、神や宗教は存在していなかったでしょう。

例えば、誰かが亡くなってしまっても、関心を示す事は無いはずです。

人間という種の存続が目的になるので、誰でも良く、代わりがきくからです。

しかし、人間という種という大きなくくりでは無く、自分という個々の存在を自覚し、他人の存在を仲間や敵として認識し出し、そして生まれた訳を探し続けているからこそ、神や宗教が誕生したのです。

人間は一人では生きていけない事はこのブログで何度も書いていますが、いわゆる社会が出来、病気に対する知識や食物の確保や敵からの攻撃に常に警戒する必要が無くなった時点で、個人が大きく顔を出してきます。

この社会が正しいのか、間違っているのか、理想郷なのか、それとも許容すべきかなど考える事もしなくなり、いつか必ず高みの社会を実現するという理想を描き続けているにすぎません。

種の存続は、そうやって人類というくくりでは無く、個人の血の繋がりや民族、宗派へと形を変えてしまったのです。

誰でも生きている限り、辛い事や困難な問題、悲しい思いをしたりしますが、大きな流れの中のほんの一瞬の出来事に過ぎず、もし神が見ているとしても、私達が歩いている時に蟻の存在を気にもしない事と同じで、何もしないし、「蟻に気を付けろ!」と歩き出した足を叩く事すら出来ないのです。

 

その後の宗教による様々な弊害はこのブログで書いていますが、いつの間にか人間は「神」にお願いをするようになってしまいました。

それは一体どうしてでしょうか?

罪悪感があなたの中に生れます。

「私だけが恵まれていても良いのか?」「もっと出来る事があるはず」「もし先祖が悪い事をしているなら罰を受けなければならない」「信じる事で誰もが天国に行けるのに、なぜ分かってくれないのか?」「このような世の中を許すはずがない」「心から信じていないから悪い事が起きる」……!

誰かに罪悪感を植え付ける事は、思っている以上に簡単に出来ます。

困難や不幸が起きる事は、目に見えない「力」の様なものの存在が関与していて、信じていない事が原因だと錯覚させるのです。

そして裁きがあるかのように決断を迫る、言い方は悪いですが脅しの様な文句を並べてきます。

責任を取りたくない気持ちや、誰か責任を取って欲しいという願望が拍車を掛けます。

「私は此処にいます。なぜ答えてくれないのですか?」

それは、委ねているだけであって、現実として捉えていないからです。

 

祈りは「約束」です。

お願いするものではありません。

例えば先祖に祈る時、敬う気持ちも込めての事でしょうが、命を繋いでくれたことに対する、自分の行いを恥じないものとする為です。

前を向き、歩いていく事を誓う為のもので、「助けて下さい」と祈ったところで、誰も聞いてはいません。

気持ちは解りますが、交通安全のお守りステッカーも、そのお金を交通遺児支援団体に寄付する方が、よっぽど効き目があると思います。

勿論、家族の健康や安全を祈りに込める事は、誰もがする事です。

何が起きるか解らないという前提があるからこそ祈るのであって、ならば今を大切にしなさい と言う意味なのです。

息子が幼い頃、散歩途中で拾ったどこにでもある様な小枝を彼からもらった時、その小枝を捨てる事は出来ませんでした。

何か特別なモノのような気がしたのです。

昔から人間は、見るものや感じるものに何かの意味付けをしたがります。

そこに何か特別な力や奇跡といった言葉を当てはめたいのです。

神様や悪魔、魂や霊、天国や地獄など幼い頃から見聞きし、より現実味を帯びて、在りもしないそれらのワードを現実の世界で起きる事に関連付けしてしまうのです。

言い換えれば、不自然な事をやっているという事です。

自然は不規則であり、人間にとって良くも悪くもいろいろな変化をもたらしますが、調和の中で動いてもいます。

時間の流れは人間だけが意識しているにすぎず、自然はただそこに存在し、均等を保とうとします。

生物の死、星の死は、新たな誕生には不可欠で、それがいつ起きるかは時間という観念の無い中では無意味な質問なのです。

宗教は、本来その様な仏教でいう諸行無常

「この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないという事」

を気付かせるものであり、人間も例外では無く、全てがカオスのように見えても大きな調和の中の一部に過ぎず、物事は動いていくもので、固執しても仕方がないと教えるものであり、そこに何かの境界線や上下、すなわち天国や地獄などの存在などは無く、生きている今を大切にする事、すなわち死は必ず訪れ、死後では何も出来ませんよと説いているのです。

マスターと呼ばれた人達の真理は、人も含めこの世のもの全てが「神」であり、その気付きこそが根本で、「心の中を落としなさい」と説くのです。

キリスト教では「神」=「愛」「真理」とも言われています。

だからこそ、完璧なものは存在せず「神」でさえ完璧では無く、その事を認める事こそが、苦の中にある幸せを見い出せる力だと言っているのです。

 

例えば完璧な「愛」は存在しません。

だからこそ今を大切にし、日々変化する心の動きを注意しながら、高め合う事をするべきで、死んでは何も相手にしてあげられません。

「真理」も前述から言うと完璧ではありません。

「真理とは」と言葉で説明できないものだからです。

Goo辞書によると真理とは「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。」と書いてありますが、ただ、正しいとか道理は不変ではありません。

また仏教でも真理を重視してはおらず、生き方そのものを説いています。

例を挙げると前述の「諸行無常」も真理とされているし、西洋でも色々な解釈がありますが、真理を突き詰めたところでそれは真理の一部でしかなく、真理を追究する事こそ真理だとも言われているのです。

この事からも解るように、完璧なものは無いという事です。

教えはこのように、色々な形を変えて伝わるものです。

特に宗教という組織になれば、多かれ少なかれ人間性が加味され易く、本来の目的から逸脱するようなカルトの集団になってしまったり、教えよりも罪悪感による心理を、悪く言えば利用し勧誘する組織になってしまうのです。

私も選挙の時に○○さんをお願いしますと、宗教団体からよく言われますが、彼らは自分で考える事を放棄しているのと同じです。

ですから、悪霊だの、日頃の行いだのと話してくる人は、マスター達の教えを理解していないばかりか、今を生きずに弱さから逃げているだけの人なのです。

そして気を付けなければいけないのは、教祖と言われる人を神格化してしまう事です。

本来マスター達は神格化される事を望んではいません。

何故なら教えを説く為であり、使者もしくは教師の役割を担ってきたからです。

神格化は、独裁者となる危険性があり、「教え」という本来の目的では無い、何かよからぬ裏が潜んでいる事が多いのです。

全ての人が、全ての物が「神」であり、特定の人物を「神」のように崇(あが)める事は、出来るはずが無いのです。

死後や先祖の霊魂の心配よりも、今を大切に生きる事が全てであり、その全てが完璧を目指す「神」そのものなのです。そして後はただ死ぬだけという事です。

 

川のように流れていれば

腐る事は無いだろう

海のように広ければ

波もまた戯れて

木のように動じなければ

鳥も静かに羽を閉じ

森のように深ければ

多くの命が舞を舞う

教えは秘密を隠さずも

そこに見い出す者は無く

只々空虚の息をする

 

生きる事が教えであり

神であり

宗教かもしれません

今を、この瞬間を大切に

それが出来るのは

あなた自身だけ

神が創造したと言われるこの世界。

いわゆるビッグバンから始まったと言われる私達が住む宇宙は、今なお膨張し続けているのです。

それは、私達が想像出来る範囲を、遥かに超えている事でしょう。

まだまだ、神が作ったこの世は未完成なままなのです

 

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友達がいない⦅本当に必要なのか?⦆

今、若い人だけでなく中高年の人、特に男性に友達がいないという人が増えているようです。

昔も今もそれほど変わらない比率だとは思いますが、やはり今の世の中、人との繋がりに飢えている人が多いとも取れます。

結論から言うと友達がいなくても大丈夫です

ニュースでも取り上げられていましたが、お決まりの解決方法ばかりを専門家やアドバイザーが発言しています。

友達を持つ事は大切で、人生を豊かにしてくれるという前提の元「趣味を持つ」とか「近所の人と積極的に話してみる」「居酒屋などで声がけしてみる」「積極的になる」……等など。

やっている人は、とっくにやって楽しんでいます。

言い方は悪いですが、相変わらずくだらないという感想しかありません。

 

本当の友達、すなわち親友に恵まれる人は、世の中そんなに多くありませんし、友達がいない人も沢山います。

友達がいない、出来ないと悩むのは精神的に不安定な時期や、今の生活に物足りなさがあるのか?

一人だと不安?になったり、楽しみの共有をしたりしたいのか?でしょうか。

悩みを聞いてもらったり、相談できたりする友達がいれば心強いし、生活の中で変化が生まれ、寂しさもまぎれるからかもしれません。

また、同じ体験をする事で仲間意識が出来、切磋琢磨し支えになる事もあるでしょう。

特に若い人達にとっては、青春を過す上で大切な存在になります。

ただ、残念ながらその様な人達ばかりでは無く、イジメや消極的な性格、病気や家庭環境などで、友達を見つける機会を奪われてしまった人も沢山、世の中にはいます。

 

一方で、友達との関係ではトラブルもつきものです。

一方的に自分の事ばかり主張していては、相手も不愉快になり離れていくでしょうし、逆もしかりです。

都合の良い時や機嫌の良し悪しで付き合い方が変わる事だってあり得ます。

当然ながら嗜好や思想、思考も変わっていくだろうし、煩わしい存在になる事だって起きてきます。

断りたくても断れない優しい方や、相手のペースに合わせてしまったり、嫌われたくない為に気を使ったりと、いればいるで問題も沢山出てきます。

親友ならば、察して理解してくれるかもしれませんが、なかなかそのような人に巡り合う事は、歳をとるほど難しくなっていきます。

兎に角、友達がいない事が、恥ずかしいとか良くない事や寂しいというイメージを持ちすぎです。

「友達がいれば……」と考える事は、もうやめにしましょう。

 

勿論、若いうちは特に人間関係を学ぶ上で大切な事ではありますが、友達がいなくても立派な人間になった人は、世界中に沢山存在します。

 

私の尊敬するアインシュタイン(Albert Einstein)を始め、

水素や水の合成等の功績があったイギリスの化学者・物理学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ(Henry Cavendish)、

吉村昭の小説『海も暮れきる』でも描かれた俳人「咳をしても一人」という句で有名なの尾崎 放哉(おざき ほうさい)等など、

中には、嫌われ者や変人扱いを受けた人だっているくらいです。

幼少期から友人すらいなかった人や、世捨て人の様な人、他人と会うのを極力避けていた人達です。

歴史的な偉業や偉人として名を知られている人ばかりでなく、宗教者としての修行による10年以上一人で過ごした人や、名も知らぬその様な友達や友人がいなかった人や孤独だった人は、沢山いたでしょう。

彼らに共通しているのは何かに夢中になっていたという事です。

それは時代にもよりますが、文化や芸術等アーティストとして夢を描いている人達、科学や物理を始め研究に没頭している人達だけでなく、生きる事そのものに苦労し、毎日過ごしている人や、病気と闘っている人達に言える事です。

 

想像してみて下さい。

日々、食べるものに困っている生活を。

戦争で、逃げ回っている環境を。

やり遂げたい夢がある事を。

病気と闘っている姿を

誰かを懸命に助けている時を。

 

シンプルに「生きる事」を捉えられれば良いのですが、豊かになればなるほど、不満や悩みは増えていきます。

何故なら余りにも情報がありすぎて、信ぴょう性も含め戸惑うばかりの中、選択肢が増え、叶わない事が増え、比べる事が増え、いつまでもキリが無くなるからです。

ただ、友達の存在は本人にしてみれば深刻な問題でもあり、病んだり、命を絶ってしまう事があるのも事実です。

だからこそ、友達の必要性を改めて考えて欲しいのです。

自分に行動や言動に非がある、すなわちコミュニケーション能力が無いせいと自分を責める事を辞めなければいけません。

友達がいない事を、自分の責任だの、自己改革だとするようなお悩み相談なんか役に立たないし、むしろマイナスになってしまいます

何故なら自己否定を自らしているからです。

あなたは此処にいて、あなたであって、他の誰かではありませんし、代わりになる人もいません。

法を犯すようなことをしない限り、ありのままの自分でいればいいだけの話で、友達を作ろうとして、無理に相手に合わせる様なアプローチは、結局自分を苦しめる事になります。

 

以前、このブログでママ友の事を書きましたが、いなくても私の妻は何ら困った事はありませんでした。

情報集めや助け合いなら良いかも知れませんが、妻に聞くと誰かのうわさや悪口にうんざりしたそうです。

よく、「今度良かったら家に遊びに来て」と言いますが、本心は来られると気を使うので嫌と思っている人の方が多いのが現状でしょう。

学校や職場での同僚は、あくまでも同僚であり、友達ではありませんし、離れれば多くはただの他人に、縁の無い人達になります。

例外もありますが、人望があるとか人気者だったとか、信頼されていたや気さくな性格だからと言って、友達付き合いがあったわけでは無いし、組織の中の一人にすぎなかっただけです。

犯罪の容疑者を取材するニュースなどでよく見かける「おとなしい人だった」「ちゃんと挨拶する人だった」「そんな事をする人には見えなかった」と聞く事が多いと思いますが、私達はほんの一部分しか他人の事を理解していませんし、どんな人間なのか?どういう人間でいて欲しいか?を決める事も出来ません。

まして自分の思うような理想を自分にも他人にも押し付ける事は不可能です。

にも関わらず、理想ばかりに囚われてしまっているのです。

それは、TVやSNS等含めたソーシャルメディアの影響が大きくなった事による弊害とも言えます。

他人の行動を、考え方や生き方を真似たくなってしまったり、本当はあんな人達の様に生きるはずなのにと、今の自分の置かれた立場に納得できない心理が働く事もあるでしょう。

しかし情報発信には、切り取りやフェイク、都合のいい部分や興味を引くような作りといった裏があるのも事実です。

その中での友達という存在の必要性を考えて見ても、上手くいくはずがありません。

見知らぬ人が他人を助けているところを見ると、心が暖かくなります。

財布を拾って届けてくれたり、緊急自動車で走り回り人助けをしてくれている人達を見ると、心からありがたいと思います。

すなわち、本当に友達になって欲しい人達の事です。

決して自慢する為や、自分を大きく見せたりする為の人達ではありません。

神様では無いので、全ての理想的な行動や考えを持っている人はいませんが、近づく事は出来るはずです。

反省や後悔をしても過去を変える事は出来ませんが、未来を変える事は可能です。

寂しいとか楽しみたい等の友達作りの動機を一旦捨てて、誰かを暖かな気持ちにする事が出来るように心掛ける方向に考えを変えてみる事です。

ゴミ拾いでも、挨拶でもいいし、人からの評価を期待しない事柄を実践したいものです。

あなたの優しさは、必ず何物にも代えがたい豊かな気持ちを運んできます。

 

一人でも、友達がいなくても大丈夫です。

人生を楽しむ方法、豊かにする事は、友達作りだけではありません。

実はそこら中にあるのです。

日本は蛇口の水を飲んでも安全で、病気になれば病院に運ばれますし、戦争が無く、交通機関は正確で、無事に帰宅出来る事もそうですし、食べ物にありつけた事や太陽がちゃんと昇った事、誰かに親切にされれば最高です。

ほら!素敵な事でしょう!

当たり前で無い事を、当たり前として過ごさない事です。

このブログでも書きましたが、この世に私達は遊びに来ているのです。

文句を言う為でも、満たされない事に腹を立てる為でもありませんし、あれやこれやと欲しいものを探しに来ているわけでも無く、たとえ手に入ったとしても、あの世に持って行く事は出来ません。

 

それなら夢中になれる事に時間を使って下さい。

何としても生き抜く事に時間を使って下さい。

何より誰かの幸せの為に時間を使って下さい。

友達作りに悩む時間すらもったいないくらい、

人生はあっという間ですよ!!

 

SNS等で悩みの共有や相談、出会い系サイトが沢山ありますが、

うまい話は絶対にありませんので、気を付けるようにして下さい。

寂しさのあまり、つい気を許し、知らぬ間に偽サイトに誘導され口座やカード情報入力してしまう可能性があります。

また、なりすましや「運勢」「運命」等といったキーワードの言葉で誘って来るサイトやカルト的宗教は沢山あります。

当たり前ですが「運」や「友達」は、お金では買えません。

お金に関する話が出てきたら、相手にせずアクセスをやめ消してしまいましょう。

 

また、ソーシャルネットワークによる交流も、それ自体は悪い事ではありませんが、知らない人とのやり取りでは思わぬ発言をしたり、不愉快にさせられたりする事もあるという前提でやって下さい。

知らない間に、自身が悪い方向に向けられる可能性や、逆に相手を不愉快にさせてしまう事も、頭に入れておいて利用するようにして下さいね。

 

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心の中は、空っぽがいい⦅竹に見習う⦆(3)

「自分を信じていますか?」

もしそんな問いかけをすると、ハッキリ「信じている」と断言出来る人は、そう多くはいないかも知れません。

よくスポーツ選手が「自分を信じて頑張ってきました」とインタビューなんかで話していますが、そもそも、「自分を信じる」とはどういう意味なのでしょうか?

 

信じる為には、「自信がある」と言われる「努力が実を結ぶ」の様な未来志向や経験の裏打ちがある事が前提です。

一般的には色々な葛藤を経て、自分自身でやり方や考え方の指針を見つけ、動じない一つの芯が心の中に出来た状態を指すのでしょう。

では、自分に対して自信が無い人とは、どんな人でしょう?

考えると解りますが、まず社会的な地位や財産、学歴等の裏打ちが他人に対して誇れるものでは無い場合も、自信の無さにつながるかもしれません。

その他、容姿や学習、運動機能といった身体に関する事も考えられます。

また、コミュニケーション能力や意思伝達等、他人に対する関わり方が上手くできないという事もあるでしょう。

経験不足で、出来るかどうか解らない場合も考えられます。

これらの自分を信じられない理由が示しているのは、ほぼ誰かと比べる事で起きる感情という事になります。

当然、社会生活を送る上で、誰でも感じる感情で、「他人と比べるな」「自分は自分」と頭では解っていても、どうしても比べてしまうものです。

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「心の中は、空っぽがいい(1~2)」を読んでいただければ理解できると思いますが、自分に対して、自信が有る無しは、実はどうでもいい事なのです。

裏打ちがいくらあっても、時代や環境が変わると、あっという間にひっくり返され、まして世の中のスピードが速い現代は、基準もコロコロ変わるからです。

ファッションやスイーツもすぐに時代遅れになってしまうのと同じ理屈です。

結局、自信も確たる根拠があるとは言えないのです。

冒頭の「自分を信じていますか?」という質問を書いたのは、このような観点から入り、心や自分と向き合うという話ばかりが巷(ちまた)に溢れかえっていて、この視点から入り込むと、答えなんか見つからない事を解ってもらいたかったのです。

別に自分を信じていようがいまいが、どうでもいいですし、信じているなら素晴らしいとも思いますが、何が起きるか解らない明日の自分の事すら、どんな事を考えているのか解らないのです。

夜、寝る前に考えていた事が、翌朝バカな考えをしていたと思うのと同じです。

 

要するに、「心」に対するアプローチ、見つめ、どのようなものなのかを探る作業が、間違っているのです。

自分の事をハッキリと解っている人などいませんし、一日たりともジッとしていない心の事なんか解るわけが無く、まして他人の事などもっと解るわけが無いのです。

だから人によっては禅をしたり瞑想をして、心の動きを見張ったり無の状態を作り出し、自己の探求をしているのです。。

 

「心の中が空っぽ」というと、マイナスなイメージで語られます。

喪失感や絶望感、無気力に自己嫌悪と虚無感の状態を表す状態の事になりますが、実際には心の中が色々なものに占領されて、整理がつかず何をしていいのか解らない状態なのです。

つまり、空っぽではなくパンパンで、身動きが取れない事です

「心の中は、空っぽがいい」

それは、余計なモノを詰め込みすぎて、入る余地が無いという状態や、中に入れるモノをごちゃごちゃかき回して、しかもどんどん入って来る意味のないモノで、整理が追いつかない状態を作らないという事なのです。

よく「想像力」「謙虚」「可能性」「多様性」という言葉をブログ内で書いていますが、前提になるのは、自分を「決めつけない」という事です。

決めつける要因は、世の中に出回っている価値観や常識という、根拠がハッキリしないものに、自分を近づけようとしている所にあります。

協調性は要らないという事ではありません。誰かのコピーになっても意味が無いという事です。

 

このブログで「心は感覚であり霊であり、魂を入れる入れ物でもあります。」

そして例として植物の「竹」の様なものと書きました。

竹の中がいっぱい詰まっていたら重くなり、しなやかさは生まれず簡単に折れてしまうでしょう。

電信柱が中空になっているのは、その理屈からです。

竹の中はカラ「空(くう)」で、心という器にあたる部分である「側(がわ)」「稈(かん)」が支えています。

もし、外側に穴や亀裂が入れば支えられなくなり、倒れてしまうでしょう。

側にあたるものは、人間性、人が従うべき道です。

すなわち「痛みの解る優しさと謙虚さ」 で、進化で獲得した新しい脳が生み出す感情の事です。

難病で入院している子供達や障害を持っている方々、災害や病気で、愛する人との予期せぬ別れを経験した人達などが持っている感情かもしれません。

その他、警察官や消防隊、自衛官の方々の根底に流れているものです。

年齢も経験値から見ると関係しますが、どれほど長生きしても学びの姿勢が無ければ、身につきませんし意味がありません。

歳を取っても理不尽な虚栄を張る人がいる事が、それを物語っています。

 

それらを身に付けていかないと、心に穴や亀裂が入るばかりか、上へ成長する事もままならないのです。

ただただ、時間だけが過ぎていき大きくなるだけで、いつ折れたり腐ったりしてもおかしくないという事です。

大切なのは、人間として元々備わっている人間性「側(がわ)」「稈」をしっかり作り上げていく事なのです。

そこから始めていかないから、迷いや誘惑、おかしな自尊心が絶えず顔を出し、落ち着かないまま不安になってしまうのです。

そして自分探しの為に、誰かを物差しにする羽目になるのです。

 

竹の根は土台に当たるもので、地下茎と言われる土の中で張り巡らされている根です。

その為、しなやかさに加え、地下茎のお陰で強い風でも倒れません。

また、茎同士つながりがある為に、水や養分を手に入れやすくなっています。

すなわち、地下では竹同士が繋がり合い、支え合っているとも言えます。

その土台、根にあたるものは「好奇心」「想像力」「夢」という言わば、知的生物が獲得した源になる力です。

日々、当たり前を良しとせず、疑問をそのままにしない。

そして「なぜ」という好奇心を持ち、「想像力」を働かせて物事を見る目を養うという事です。

この根がどんどん伸びれば、土台もしっかりしていきます。

そして土の中で繋がっている他の「多様性」という竹と共に支え合う事が出来るのです。

言い換えれば人との繋がりが豊かになり、相手あっての自分という捉え方の大切さを意味するのです。

竹は根から水や養分を吸い上げ、側(稈)の中を通る道管や師管と呼ばれる水と養分の通り道の束(維管束鞘いかんそくしょう)を経て大きくなります。

すなわち「多様性」という繋がりによる「想像力」や「可能性」という養分を吸い上げ、成長していく先に、未来という空(そら)に向かって伸びていく姿になるという事です。

 

竹の節の間隔は、下は短く上にいくほど長くなります。

他の樹木と違って、節に分裂組織があり、成長点の数が非常に多いので、節ごとに大きくなっていきます。洗濯機の排水や掃除機のホースの様なジャバラを伸ばすように成長する事が出来るので、大きくなるのも早いのです。

樹木の様に太くもない竹、折れる事が少ないのも、この節の長さが関係しています。

下は、自重を支える為短く、上はしなやかさを持つ為に長いのです。

人間の心に例えても、同じような事が言えます。

成長するに従い、心が大きくなっていきます。

節目節目に積み上げていく心は、次第に広くなっていくのです。

若い時よりも、持ち込む事が減っていき、広さと相まって軽くなり、どんな困難という風にも耐えられるようになっていくという事です。

 

自然は驚くほど巧(たくみ)で、人間もそうあるはずです。

ただ、残念な事に最大の武器である脳を活かしきれないで、現実社会の小さな世界で、もがいてしまっているのです。

重いものをしょい込んだままでは、折れてしまいます。

それも、本当に大切なものかどうかも、よく解らないでしょい込むのです。

心の積み重ねも出来なくなります。

ハウツーで得る様な知識は、所詮知識で、活かすも殺すも土台が、側がしっかりしていなくては、ただの紙屑です。

タケノコのように、生まれたての頃は、土台、側はまだ出来ていません。

タケノコなら掘り出して美味しく食べるだけの話ですが、人間はそうはいきません。

周りの親を含め様々な大人達が「側」の役割をしてくれ、守ってくれますが、大人になるにつれいつまでも守られる事は無くなっていきます。

「側にあたるものは、人間性、人が従うべき道」と書きましたが、幼い頃は、家庭では勿論、幼稚園や学校で、やってはいけない事を習っていきます。

また友達などの関係性から自我が芽生え、他人と自分の区別を理解するようになります。

そして人の嫌がる事をしてはいけない事を学んでいくのですが、同時に他人との比較をする事も学びます。

このブログで何度も書いていますが、人間は誰かの助けなしに生きてはいけません。

毎日の食事から移動、仕事と全て誰かの関りがあって生活しています。

その関わり合いを意識する事は余りありませんが、「いただきます」という言葉の意味が示すように、何気ない毎日に感謝する事であり、それには「謙虚さ」が必要になります。

諂(へつら)ったり、相手を立てたりするという意味では勿論ありません。

一歩引き、相手の立場になれる「想像力」です。

本当の意味での自我の芽生えとも言えるでしょう。

誰でも自他を問わず腹が立ったり不満に思ったりしますが、その様な感情をコントロールする為にも、「側」の役割は大きいのです。

残念ですが、子供のまま大人になった人が増えてきているようです。

民主主義国で、自由な発言が出来る事を盾にして誰かを傷つける人達は、「側」の無い裸の王様と同じで、寂しい限りです。

 

心の中には

全てがある

命の秘密も

過去からの声

無言の指針も

心の中の探求は

寿命という時間

思っているより

はるかに短い

 

全てを否定するわけではありませんが、子供の頃の教育の弊害とも言える、型にはまった人、型通りの事しか考える事が出来ない人を生み出す社会は、どんどん疲弊し活力が無くなり、住みにくいものとなる事でしょう。

何故なら自然は多様性無くしては、滅んでしまいます。

変化に順応する為の多様性が、生き残りのチャンスになるからです。

指標となる物差しも、誰かやモノで決めていくと、おのずと世界は狭まり、息苦しくなるでしょう。

モノに溢れ、どんなに便利になっても、逆に心はどんどん孤立していくかもしれません。

満たされない何かを求め続け、内なるもの、湧きだしてくるものの力を軽んじているからです。

 

重くなってしまった心を一旦(いったん)、

空っぽにしましょう。

私達は、この世に遊びに来ているのですから。

そして、

必ず還る時が来るのですから。

遊んでいる子供達、

きっと頭は空っぽですよ!

 

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孤独と独りは違う!⦅歳を重ねて⦆(2)

人間は、当たり前だが歳を取る。

長生きすればするほど次第に見送る人も多くなる。

ただ、命が長らえるだけの話なら簡単に済むが、生きている意味にも関わってくる事で、人間としてどう生きていけば良いかという事も考えていかなければならない。

 

このブログ「生と死と宗教の狭間(はざま)・前編」でも書いたが、チューブに繋がれたままベッドに横たわる人達を見てきた私は、生きる事とは何かを考える意味で、その事を考える大切さをつくづく痛切した。

とにかく一人で生まれ一人で死んでいく。

生と死の狭間をどう考えて生きていくのか?という事になる。

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最近、生涯現役や健康寿命という言葉をよく耳にするが、元気で、何か目標なるモノを持っている人ばかりではない。

人それぞれの生き方があり、基準やルールがあるわけでも無いし、環境が違うという要素も加わり、さらにお金の問題も大きく生き方に影響する。

日本人の貯蓄率は世界でも常に上位にランクされているが、裏返せば、政府は当てにならないから自己責任で人生を考えろとも言える。

要するに、国の老後設計の政策に対する不信、不安感が高いとも言える。

ただ単純にみんな貯蓄が多いわけでも無く、やはり年収の高い人ほど多く、かなりの開きがある。

 

現代は、私達にとって生きにくい世の中だ。

社会から取り残され、こぼれ落ち見過ごされている人が多くなっている。

親の貧困が、若い人達の不登校や引きこもり、ヤングケアラーに結びついている場合も多く、加えて孤独死と次から次へと問題が浮き彫りになってきている。

痴呆問題や老老介護も、いつ誰がなってもおかしくないのが現状だろう。

 

そして、お金が無いと悲惨な結果になる事も多い。

なにをするにも元手が必要であり、年金も少ない中どうしてよいか、私自身も含め途方に暮れてしまう。

不安ばかりが頭をよぎり、ただでさえ前向きに考えられなくなっている状態に拍車をかける。

先の事を考えると不安になる人達も増えていると聞く。

少ない年金や人生百年で働けと言われても歳がいけば体力も気力も衰えるのは仕方が無い事で、頑張りだけではどうしようもないのだ。

誰でも歳をとり、出来る事も出来ない事も増えていく。

勿論私も例外では無い。

まして貯金も無く病気を抱える私なんか、お先真っ暗状態だ。

 

人の数だけ人生があり、経験や教育もみんな違った人達で構成されている社会。

その社会の中で生きている限り、基本となるモノはどうしても他人との比較になる。

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「孤独と独りは違う!⦅1⦆」で書いたように、独りになりきれない人達が沢山いる。

今、その様な孤独な人達が溢れ、それを埋めるようにペットを飼い、消費し、上辺の美しさにお金をかけている。

心の隙間を埋める為に。

お金があればの話だが。

 

心の話に移るが、身近な人がいなくなるのは、とても寂しい。

冷たい表現になってしまうが、過ごしてきた中で本来当たり前でない事が当たり前のように思っていただけに過ぎない。

すなわち、誰もが死ぬという事実だ。

今の状態がいつまでも続く事は奇跡の連続であり、日々の変化に気付く落ち着いた時間の無さは、

例えば「あなただけ。ずっと想い続ける」と約束し合っても、やがて日常の一コマになり、車窓から流れる景色の様に過ぎていくものになってしまう。

それも、通勤電車から見る景色の様に、次第に外を見る事もやめてしまうという事だ。

人間は、「慣れる」そして「飽きる」だから刺激を求める。

脳が、同じような繰り返しを良しとしないからだ。

ただ、日常生活している中で、刺激のあるような出来事はそうそう起こらない。

サプライズもミラクルも、何度も起きればそうでなくなる理屈と同じだ。

以前にも書いたが、精神を患って以来、人と会うのが億劫になってしまった。

顔見知りならともかく、見知らぬ人に会うと途端気分が落ち込み、喉のあたりを締め付けられる様な感覚になり、頭の後ろ半分がまるで鉛でも詰まっているかの様な辛さを感じる。

ただこの時期息子の進学という事もあり、役所や学校に何度か行かなくてはならないので、その度に薬を飲む間隔(医者の了解の元)も短くなる。

誰かと会わなければいけないと考えるだけで、具合が悪くなるので本当に困ったものだ。

そんな中、数十年ぶりにフィリピンパブで知り合った仲間から、飲み会のお誘いの電話がかかってきて、知り合いだし気分も変わると思い、会う約束をした。

居酒屋で待ち合わせをし、結局私を入れて4人集まったのだが、飲める人は1人だけ。

肝臓を傷めて飲めないとか、健康を考えて禁酒しているとか、アルコール依存症経験者の私も含めウーロン茶で寂しく乾杯をした。

殆ど歳が変わらないメンバー達だが、みんなそれぞれ苦労している中、必死で頑張ってきたようだ。

最初は身体の調子が悪いだの、どこそこが痛いだのと、まるで病院の待合室の様な会話が多かったが、彼らの目は、初めて合った時と変わらず子供っぽく、キラキラしていて束の間だったが、私も若さを取り戻したような気分になった。

職業も経験も全く違う彼らの話は、近況報告と思い出話から始まって、現在の政治情勢や社会の在り方、人生論まで実に幅広く、会話が途切れる事も無く、もう何年もあっていなかった友人達だったが、あっという間の3時間の飲み会となった。

何より健康で生きる事を楽しもうと約束して別れたのだが、最後までキラキラした彼らの目を思い出し、足取りが軽かった帰り道だった。

 

歳をとり、現状を素直に受け止められなくなり、事あるごとにいら立つようになってしまう事があるが、諦めと挫折、後悔や失敗は誰にでもあるし、そこから学ぶか立ち尽くすか、あるいは後戻りするかは個々の選択に過ぎない。

色々な経験をしてきた中で、思うように出来なかった事を糧とせず、常に「運が悪かった」「アイツのせいで」という他力本願的思考の責任探しをどうやら脳はやりたいようだ。

せめて、自分よりも恵まれていない人を見つけ安心したいのかもしれない。

それは、歳を重ねるほどその傾向になるようである。

切れやすい中高年のニュースも多い。

レジでも、お店の店員にも、並んでいても、運転している時もイライラしている中高年者をよく見る。

結局のところ「孤独」なのだ。

自分の存在を、他人に感情をぶつける事で確認したいのかもしれない。

そして、過去の不幸だった自分の人生の事を清算したがる。

マイナス分を取り返すつもりだろうが、さらにマイナスを増やしているだけで、不幸が不幸を招いている事になる。

 

孤独は、物理的なものと精神的なものの二種類あるが、単純には分けられない厄介なモノだ。

相互に絡み合っている事の方が多い。

前述した友人達も、決して裕福でも無く、私的な深刻な問題も多く抱えている。

ただ、彼らに共通している事は孤独では無く、独りでいる姿勢なのだ。

山ほどある課題、目の前にある事をまず片づける姿勢と過去にこだわらない事。

まだ来ない先の心配をしないなど、他力では無く自力で取り組む姿勢が、独りとしての自分を確立しているのだ。

若い時と、歳を重ねた時の孤独の感じ方は違うかもしれないが、生きている事が全てであり、後はおまけという考え方と言ってもいいかもしれない。

 

退職後に途方に暮れる人が多いと聞く。

会社では同僚や部下などとコミュニケーションがあり、人間関係には事欠かないが、退職したその日から話し相手も飲みに行く事も無くなる羽目になり孤独になってしまう。

やたら連れ合いに絡まったり、ペットを飼ったりと色々試すが、孤独のままでいる限り満たされる事は無いだろう。

孤独と独りは全然違う。

 

孤独は徐々に忍び寄るものだ。

奇跡の確率で生まれ、奇跡の様な毎日を生きている事が、当たり前の繰り返しの様に、そして誰かの助けが、繋がりがある事を考えなくなってしまいがちになる事で、孤独が忍び寄って来る。

勿論、身近な人を失くした時は喪失感や孤独感を味わう事になるが、だからと言ってイコール孤独とは言えない。

目の前からは居なくなっただけに過ぎず、心の中に存在している事への気付きが、孤独感をはねのけてくれるからだ。

孤独は客観的に自分を見る事が出来ない人、現実を受け入れる事を素直に認めない人が陥りやすい。

ただ誰にでも起きうる事でもあり、自分の存在を他人を、地位や財産、権力を通してしか自覚できない所から始まるまさに錯覚だ。

そもそも、自分がどんな人間なのかは死ぬまで判らない。

まして第三者からの評価すら、怪しいものなのだ。

どんな人間だったかは、関わった人達の記憶の中に刻まれるだけである。

どんな人間になるかは日々の生活の中で、築いていくものだからだ。

だから普段から○○の○○さんという生き方を変え、自分の廻りにまとわり付いている固定観念や社会的な位置を脱ぎ去る必要がある。

すなわち素の自分って何なのだろうと考える事が大切なのだ。

しかし、答えは死ぬまで出ないだろうが、その探求こそが「独り」への道と言える。

人間は決して一人で生きていける動物では無い。

身近な人に限らず見も知らぬ人達のお陰で生きていける。

私の父がよく言っていた「誰のお陰でメシが食えると思っているんだ!」というセリフ。

昭和のおやじ達がよく言っていた言葉だが、そのおやじ達を支えている人達は、会社の人間だけでは無い事に気付いていないところに不幸がある。

それは、自分という意味付けをやたらしたがる人達に欠けている視点だ。

 

「独り」とは何でも一人でできるという意味では無い。

誰かに助けてもらう事が出来る力を持っている事と、謙虚さをもって生きている事に感謝している人の事だ。

出来る事と出来ない事をハッキリ分けて考える事でもある。

だから過去を振り返る事をあまりしないし、過去の失敗や不幸せを未来に、すなわち明日に持ち込まない。

だからこそ未来の起きてもいない事に煩わされる事も無くなっていく。

同じような景色を違った観点から見られ、新しい事や他人の意見に耳をかせられる柔軟な脳を持っている事だ。

すなわち、学びの姿勢を忘れないという事で、と同時に想像力や楽しい妄想を描ける余裕なのだ。

自分の中に果てしない宇宙を感じる力と言ってもいいかもしれない。

高齢化が進む中、やはり孤独の問題も多くなっている。

一人で住んでいようが、病気を持っていようが孤独では無く、独りとして生きていけられるようにする為には、何度も書くが○○の自分という肩書を捨てる事と、助けを必要とした時に自ら発信する行動力、そして何より、どんな事があっても生きる事に尽きる。

趣味を持つ事や仲間を作る事など、当たり前の様な解決策なんか無視してもいい。

出来る人はとっくにやっているからだ。

ただ、もし力になってもらう事で、生き生きする事が出来るようになるなら、こんなに素晴らしい事は無いだろう。

誰かのチョットしたキッカケを活かせる事が出来れば、心が元気になる事もある。

病気になってしまい、身体が動かなくなるのは誰でも辛いし、その可能性は誰にでもある事で、身体の衰えや健康でないと心も沈んでいくのは事実だが、誰も「心」を縛ってはいないし、自由である。

孤独も独りも環境の問題だけでは無く心の問題として捉えるべきであり、どんなに居心地の良い環境の中にいても、また多くの人達に囲まれていても孤独になってしまう事だってある。

世の中のセレブ達がみんな幸せで孤独で無いなんて誰も思っていないのと同じだ。

病気と闘っている、もしくは障害を抱えている人が孤独であるとは思わない。

誰かの基準で線引きをする事を辞めなければ、心は自由にはならない。

 

誰でも生きている中、何度か孤独感にさいなまされる時がある。

若いうちなら立ち直れる可能性も高いが、歳がいけばいくほど抜け出す事が難しくなる。

新しい事を始める事や環境を変えたくなくなる。

体の衰えも拍車をかけるだろうし、病気だってするだろう

心細くなってしまう事もあるし、意味が無いと落胆する事だってある。

それは、誰もが思う事で、特別な事では無いごく普通の感情だ。

でも、それは自分の選択の結果であり、誰のせいでも無い事を今一度考えるべきだ。

残された時間、それまで歩んできた道を振り返るよりも、例え遅くともまっすぐ前を向いて歩み続けたい。

生きてきたんだ

記憶が多く積み重なり

だから

一輪の花からさえ

物語を紡げる

雨の匂いからさえ

遠い過去に戻れる

時間の流れは

その気付きの為にあり

死の恐れさえ和らぐ

 

これまで生きてきた自身の記憶は、たった一輪の花からでさえ多くの物語を引き出す事が出来る為のものであり、日々の生活の中に隠れていた幸せを感じる為でもある。

変わらない景色や日常を、考え方や見方を変える事で孤独から解放されるだろう。

但し、気付きが無いと折角人生で学び、経験した事も無駄になってしまう。

「気付き」それは謙虚さから生まれてくるものだ。

出会ってきた多くの人達や取り囲む自然に対する、生かせてくれた事への謙虚な心持とも言えよう。

死んでからは決して出来ない事であり、今すぐ必要な心の持ち方なのだ。

誰かの為、見知らぬ人でもいい、その為に時間を作る事、自分を捨てられる時間こそが孤独から解放される。

その事が、その誰かの中にあなた自身が生かされ、その人の人生の一部になる。

所詮人間は、一人で生まれ一人で死んでいく。

足掻(あが)いても、後悔しても、過去に縛られても必ず死んでいくのだ。

誰かのせいにしても元に戻るわけなど無い。

ならば、「独り」を楽しむ方がずっといい!

 

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