心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

子供はタイムマシーン!⦅オリジナル曲「未来」⦆(2)

子供って幸せに一番近い所にいるんだ

だって

ポロポロ幸せを落としながら歩いているから

涙だって本物だもの

寄り道だって

アトラクションに変えちゃうんだから。

ポケットに入りきらないんだね。

ほら!また落としたよ

 

どんな未来を生きていくのか、どんな未来を作っていくのか。

いずれにせよ、「生」を楽しみ、命の歓喜を味わって欲しいのです。

それは我が子だけではなく、世界中の子供達に願う「祈り」ともいえる気持ちです。

子供たちの笑顔ほど、幸せなものはないし、

子供たちの涙ほど、悲しいものはないのです。

 

大人も、以前は子供でした。

走りたくて、飛び上がりたくて仕方がなかった子供だったのです。

キラキラした目と、時間を忘れるぐらい遊んでいた子供だったのです。

忘れ物したように時々空を見上げて、そんな風に思い出します。

子供達が不幸になるような国は、いずれ滅ぶでしょう。

 

以前住んでいた場所の近くに大きな公園があり、幼い子供を連れて沢山の人が遊びに来ていました。

その中には、日本人ばかりではなく、中国、ロシア、クルドの人達の姿も時々見受けら、子供達には何の偏見も無く、言葉は通じずとも互いに遊びながら楽しく時間を過ごしていました。

生れた時には、誰も恨みや偏見、差別する心は持ってはいません。

砂場で、オモチャの取り合いはしょっちゅうでしたが、それは単なる成長過程から生まれる執着心からで、大人の様に根に持ったり、欲を満たし続ける為ではありません。

はしゃぐ子供を、声を出して騒ぐ子供を見る事はこんなにも楽しいモノかは、若い頃には考えもしませんでした。

幼い頃に観た景色を大人になってみると、こんなにも小さな世界だったと思う事があると思います。

それは、頭が忙しく活発に動いている為、大人が差も当たり前としている景色を見過ごす事無く、味わっているからと、そして低い視線で見ていたからでしょう。

 

大人を見た時は、大きくて怖くて頼もしい目で見ていましたが、大人になった私は、バカで情けなくて頼りない存在になってしまいました。

それでも、子供の心持に近づきたい時があります。

動き回る事の楽しさや、好奇心いっぱいで見る世界。

意味もなく集めたドングリやダンゴムシセミの抜け殻。

いつまでも、流れる水にてを当ててびしょ濡れになった事。

今では砂場やブランコを見ると、何故かしら寂しい気持ちになります、

もしかしたら遊び足りなかったかも知れません。

 

日々顔を合わせていると、つい口出しをしたくなるような歳になった息子。

知り合いの家庭での子供達への愚痴を友人や妻から聞く度、いつの時代も変わらないと思いながらも、我息子にはあまり口出しをしない様にと思いとどまる様にもなりました。

我身を振り返ると、親の助言の90%は聞いていても、実行に移す事は無く、自分で失敗してからちゃんと聞いておけば良かったと思う事ばかり。

勿論、モノを大切にしなかったり、彼の行動が健康に悪影響を与える時や、汚い言葉を使った時には叱りますが、兎に角元気でいてくれているだけで幸せだと思うのです。

 

戦争や災害、飢餓、事故や病気で毎日のように子供が死んでいくニュースが流されています。

とりわけ辛いのは、虐待や育児放棄で命を落とした子供や自ら命を絶った子供達です。

やりきれないのは、その死が無駄になってしまう大人達の対応です。

順番に死んでいくのが生物界の掟でしょう。

しかしその順番が狂ってしまう事を防ぐ事が出来たにもかかわらず、毎日のように尊い命が奪われてしまう事です。

紛争や戦争も同じ事でしょう。

大人も子供の時代があったのです。

その大切さが解るはずでしょう。

 

マイケル・ジャクソンMichael Jackson)の言葉より

「When I see children, I see the face of God. That’s why I love them so much. That’s what I see.」

『子供達を見るとき、そこに神様の顔がみえる。だから僕は子供達が大好きなんだ。それこそが僕が見てるものなんだ。』

 

息子を見ていると生きていてくれているだけで幸せだと思わずにいられないのです。

何より、笑顔の瞳の奥にある、希望のキラメキを大切にしてやりたいと思うばかりです。

親はいくつになっても親だと改めて実感します。

私は両親との折り合いが悪く早々と家を飛び出しましたが、その事を両親はどう感じていたのか?と思うようになりました。

長い年月がかかりましたが。

何故なら、我が子を授かった事も理由ですが、子供達や若者を見る事のが楽しくなった事が大きな理由です。

最近も、SNSで知り合った若者と話をしましたが、思った以上にしっかりしていて、ちゃんと自分の考えを持っている若者で、まだまだ日本の若者も捨てたもんじゃないと実感しました。

いつの世も大人は「今の子供、若者は!」と愚痴をこぼしているもんです。

そう言いながら、幼い頃の純真さを捨てて、当たり前の様に愚痴りながら毎日を繰り返しています。

 

人生は何が起きるか解りません。

死の片りんも感じさせない生き生きとした若い人達を見る事が出来るのは、そこに未来を見い出すからでしょう。

裏返せば、残り少なくなった自分の人生の時間を考えるようになったからかもしれません。

子供は宝物であり、社会が大切にしない限り未来は決して来ないのは確かです。

 

以前にも載せたアインシュタインの言葉より

「Study and, in general, the pursuit of truth and beauty is a sphere of activity in which we are permitted to remain children all our lives.」

『学ぶこと。そして真実と美を追求すること。このことに関しては、ずっと子どものままでいていいのだ。』

 

『未来』オリジナル曲

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対人関係に悩まない⦅グラデーション⦆(3)

夜の街を歩いていると

影がいっぱい映るんだ

本当の影はどれだろう?

僕は独りっきりなのに

太陽の様な

まっすぐな光に照らされる影は

はっきりと一つだけ

そんな風に

誰かを照らしてあげたい

あなたが誰か迷わないように

 

歳をとると、今迄の自分のやってきた事を振り返る事が多くなりました。

多くの人との出会いや経験、一つ一つに意味があったと納得させている自分です。

若い頃には判らなかった善悪や本音と建前、人間の素晴らしさと、醜さなどなど。

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特に人間関係では病気になるくらい辛い思いもしましたが、素晴らしい人達との出会いもあり、自分と他人との間にある良くも悪くも繋がりがあってこそ、今の自分がいる事は確かです。

昔は、いい人、悪い人とハッキリ分けていた感情が、今はグラデーションの様に境目が無くなってきたのです。

自ら省(かえり)みても、ある人にとってはイヤな人間と映っていただろうし、付き合いの悪い自分勝手と思われていたかもしれません。

反面、記憶に残るような人間像として思ってくれた人もいるかもしれません。

いずれにしろ、日によって、環境によって変わっていく心の揺れがあり、確たる自分、何者なのかをハッキリとさせる事には無理がある事を学んだのです。

意地悪だったり、優しくなったりと白黒では無いグラデーションの中で行ったり来たりしている心があり、それは自分だけでなく他の人も同じように揺れ動いているのでしょう。

 

フィリピン人の妻は毎日のように人間関係に絡む悩みの話を私にします。

愚痴をこぼす事は心の健康から考えると良い事で、私はなるべく耳を傾けるようにしていますが、

ただ妻の性格は私と違って割り切る事が得意とみて、尾を引く事はほとんどありません。

日本人なら少なくとも考えるであろう、先の事や過去の態度は気にせず、今起きている不合理に対してモノが言えるのは、ある意味うらやましく思います。

 

私自身も数々の職場での人間関係の難しさを多く経験してきました。

どの職場でも気が合わない人や、意地悪、嫌味を口にする人がいました。

イヤな思いをさせる人の特徴は大体2通りあります。

「自分のイヤな部分を相手の中に見出し、不快感が増す」

例えば、ハッキリと意思表明が出来ない人がいると、自分もそのような事で嫌な思いをしたことがある為苛立ち、同じようなタイプの人を見つけると攻撃するのです。

すなわち相手を見ると、まるで情けない自分の事を見ているようで嫌になるのです。

「自分が持っていないものを相手が持っている事に対するジェラシー」

上司から親しくされていたり、同僚と楽しく過ごしていたりと自分には無い部分として、やっかみもあり何かと言って来るのです。

そして、言えない相手と言い易い相手を区別し、反抗や反撃してこない人に対しうっぷんを晴らす為に攻撃するのです。

相手を鏡として見て自分を確認しているので、自分に自信が無い人なのでしょう。

共通して言えるのは、地位が上の人や権限を持っている人に対する態度と、それ以外の人に対する接し方に大きなギャップがある事でした。

「長い物には巻かれろ」という生き方を選んでいるのかもしれません。

ただ、その長いものがいつまでもあるわけでは無い事に気付いていない場合が多く、その為に急におとなしくなった人も何人も見てきました。

 

以前も書きましたが、世間では人付き合いに関する情報があふれかえっています。

御多分に漏れず、私もその様な本を読み漁りましたが全く意味の無いものでした。

何故なら、皆違う人間であり、どんな助言や心構えを習っても実践として役に立たないモノばかりでした。

そうなんです。誰でも頭では解っているのです。

ただそれが出来ないとか勇気が無い等の理由をつけて、なんとか自分を保っているだけなのです。

いまだに格言やことわざ、名言が読まれ続けている事を見ると、人間はさほど進化していないという事です。

 

残念ながら、人はすぐに変わる事は出来ませんし、むしろ変わらない生き方を望む人の方が多いかもしれません。

まして、周りが変えようとしても本人の気付き無しにはほぼ不可能で、歳と共に難しくもなります。

一生嫌な人で終わる人生もあるでしょうし、後悔しながら終わる人もいるでしょう。

もしくは正しいと信じて、自分本位を貫く人生もあるのです。

 

このブログで「人生は苦である」と書いてきました。

楽を求める事から始める姿勢は間違っているとも言えます。

苦の連続であり、垣間見せる小さな明かりが「幸せ」とも書きました。

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私達はグラデーションの世界で生きています。

負の方に時に善の方にと留まってはいませんし、境界線があるわけでもないのです。

一概に外国人の考え方として比べることは出来ませんが、白と黒、正義と悪、天国と地獄といったハッキリとした振り分けでは無い、日本人が育み持ってきた曖昧さもグラデーションと言えるもので、決して悪い事では無く、逆にこんな世の中だからこそ見直し、大切にしなければいけないものなのです。

イヤな想いをしている人も勿論の事、させている人もグラデーションの中で生きているのです。

泣きたい時や悔しい時、自分が情けないと嘆く時もあれば、人を傷つけ、怒り、嫉妬する事もグラデーションの心の中で行ったり来たりしています。

ですから、気を付けなければいけない事は、自分にとってイヤな人を「こんな人」と決めつけない事です。

私も経験がありますが、決めつけてしまうと自分の心が狭まってしまうのです。

例えば嫌な人から離れたり無視をしたりする事は一時避難としては有効ですが、その時のあなたはグラデーションの悪い方向に傾いているかもしれないからです。

「仲良くしろ」「もしかしたらいい人かも」「私が我慢すればいい」と思う必要はまったくありません。

あなた自身の心の動きを観察し、負の方向に行かない様にする事

その為に泣くのもいいし、誰かに話し、愚痴を聞いてもらうのもいいでしょう。

空や海といった広い空間を見る事でもいいでしょう。

大好きな音楽や、映画を観るのも手です。

あなたが、負に巻き込まれる事が一番良くないのです。

負に書き込まれてしまうと、あなた自身を傷つけるばかりか、大切な人まで辛い思いをさせてしまうかもしれません。

負の方に傾いた状態で、さらに深追いしてしまうからです。

「心」はそれがとても得意なのです。

もし、子供さんがいるなら抱きしめたり、手を握ったり、頭を撫でる事でも心が落ち着きます。

子供は、良い方向に導く力を持っているからです。

もしお子さんがいない時は、近所の保育園や公園で遊ぶ子供達を見るのもいいかもしれません。

すなわち、「可能性」を感じさせてくれる人やモノと接する事です。

小さな世界から抜け出すのです。

心は、思っている以上に広いのですから。

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今、人間関係で悩んでいる人に私の経験から言える事は、例え良しとしない方向に行ったとしても、良い方向に変えられる力を持っているという事、すなわち弱さや痛みを経験すればするほど、深みのある色のグラデーションを持っているという事の「気付き」です。

その気付きが同じように修正する力を持った人を、あなたの周りに集めてくれるからです。

磁石と同じで、自然の成せる素晴らしい摂理と言ってもいいでしょう。

だから、自分にとって好ましくない人の側に居たくなくなるのです。

すなわちイヤな思いをさせる人は、グラデーションの中という意識が薄く、悪い方向から良い方向に戻す力が弱い人で、線引きをしたがる本当に可愛そうな人なのです。

そして、自ら意味のない線引きをする人を引き寄せてしまいます。

線引き、境界線を作ると、それが人の判断の独自基準となり思うようにいかない事を他人にぶつけてしまう、要するに短絡的な考えに陥っているのです。

言い換えると、在りもしない線引きや境界線を引く事の愚かさです。

 

心はいつも明るくニコニコしている状態を持続する事なんてそんな簡単に出来ません。

ていうか、無理なのです。

たった一時間の中でも嫌な、情けない自分や、はたまた褒めてやりたい自分がいるのです。

もし線を引いてしまうと自分を卑下するか、もしくは天狗になるかの短絡的な思考になってしまうからです。

 

生きていく中で経験や学び、そこから生み出される様々な感情。

それは、人生という色の積み重ねです。

例えば、幼い頃はピンク色辺りをウロウロしているのですが、赤、すなわち危険な方向に行きそうになると、周りの親や大人がピンクの方に引き寄せてくれます。

けれども、大人になるにつれ、安全な、良い方向に引っ張ってくれる人は減っていきます。

それでも色の積み重ねは続いていきますが、優しさや、人を思う気持ち、痛みが解る人間であればあるほど、暖かい色が重なっていくのです。

反対に、自分を顧みず人の気持ちを考えられない人は、沢山の色を欲しがり、やがて闇の色になってしまうのです。

絵具を全部混ぜると、ダークになる事と同じです。

そして、自ら作り出した白と黒、良し悪しといった、ありもしない線引きに苦しむ事になるのです。

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誰でも人間関係で悩み、眠れなかったり辛い思いをしたりするものです。

自分の弱さもイヤなところも全てグラデーションのあなたです。

心はグラデーションであり、自分を「こうだ!」と決めつけない事です。

行ったり来たりするものですから。

暖かい色のグラデーションを重ね、まるで虹の様にする事だって出来るのです。

何故なら、いつも出発点にあなたは立っているからです。

あなたは常に新しいのです。

 

過去の嫌な思いをした事や悩んだ事も、振り返ってみると「大した事でも無かったなぁ」と思うようになります。

時間はかかるかもしれませんが、ただし、その時その時の選択は大切にして下さい。

揺れ動く心でも優しい人でありたいならば、ずっと優しい人でいて下さい。

優しさの方向に近づくように、常に心を見張っている事です。

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「良い方向」「悪い方向」「負」「正」その意味を決めるのはあなたです。

「これだ!」と断言できるものは無いのです。

もし迷うなら一歩下がる、すなわち「謙虚になる」という事でしょう。

頭(こうべ)を垂れないと見られない世界、見上げる世界は子供の視線と重なり、きっと大きく広いものです。

その時に同じように、見上げている人が必ずいます。

 

あなたの「気付き」は、新しい出会いを呼び込む事でしょう。

そして、知らずに誰かの支えになる存在となります。

それは偶然では無く、あなたが引き寄せた必然だからです。

今日もどこかで誰かが過去を振り返っています。

あなたが、その誰かの過去の素敵な一部として残りますように。

 

余談になりますが、

人類が誕生して以来、中性化が徐々に進んでいる事をご存じでしょうか?

最近では、精子の奇形や現象、異性に興味が持てないといった人、いわゆる草食系が、クリニックを訪れる様なニュースも流れていましたが、攻撃的な性格(性差を決めたり、筋肉を大きくするといった作用もあります)をつかさどる男性ホルモンであるテストステロンの量が少なくなり続けているのです。

すなわち、集団生活する上で、攻撃的な性格人は必然的に孤立してしまいます。

結果、そのような人の子孫が減り、より同調性が高い脳を持つ人の遺伝子が残っていったという訳です。

 

反対にテストステロンの量が増えている女性が、多くなっているとも言われています。

なかには、このままだと人口が減るとさえ言う学者もいるのです。

自然は私達人間に、何を求め、何をさせようとしているのでしょうか?

平和を望んでいるのか?

人類を排除したいのか?

結果を見る事は私の歳では無理ですが、いずれにせよ、いつか地球は無くなってしまいます。

自らか?

自然にか?

宇宙(そら)というはるか遠い過去を見上げながら、私の探求の日々は、まだ終わりそうにありません。

 

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20221028152413

人生って何?⦅努力と運⦆(3)

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20代の頃から音楽に夢中になり、自宅に小さなスタジオもどきの様な資材を置き、毎日のように打ち込みというコンピューターによる音の貼り付け作業をしていました。

昼頃から始め、気が付くと真夜中だった事もあり、振り返ってみると好きな事をやっている時間は、努力でも無ければ、勉強でも無い一種のアドレナリンの放出時間だったように思います。

結果作業も早くなり、色々なアイデアやテクニックを学んでいました。

こんな時間を過ごせたことは、私にとっては大切な青春の1ページで、と同時に夢中になる事の楽しさと、努力や勉強は別なものと理解したのです。

30代頃、素敵な彼女ができ、車の無かった時なので彼女に会いにいく為、電車で1時間かけてよく会いに行ったものです。

そして恋愛をした方は解ると思いますが、時間はあっという間に過ぎ、何度も終電に間に合わず、40キロメートルの道を歩いて帰っていましたが、それは苦痛でも何でもありませんでした。

白みかけた空を見ながら、幸せをかみしめていたからです。

 

どちらかというと面倒くさがりの私は、努力や才能には無縁でしたし、自ら行動を起こすタイプでもなく、まあ世間でいうとありきたりな人間でした。

自分に自信を持てない、夢見の馬鹿と言ってもいいくらい、世間とはかけ離れた先を考えない生き方をしていました。

 

ふと我身を振り返った時、自分の人生は自分のものだったのか?と疑問が湧いてきた時がありました。

自由気ままに40代後半まで独り、定職につかず暮らしてきた中で、何度も生まれてきた意味や人生について考えてきましたが、結婚し子供が生まれ、人生とは?という問いに対する答えも変わっていきました。

自分で何事も決め、やりたい事をやって来た生き方から、相手の事を考え話し合い、時にはぶつかり合い、物事に対する決断や生き方が重くなっていきました。

家族と言えども、一人一人人間として独立した存在で決して自分の思い通りにはなるものではありません。

自分が描く人生の在り方は、もはや他の人間を左右する存在になったと自覚したのです。

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人生の意味や生き方について考える動物は人間だけです。

そして「心」という概念を私達は生み出しました。

心は、想像力をもってすれば、見上げる空よりも広い空間となります。

ただ、空間は人それぞれで、詰め込むものも違います。

同じように人生の意味を考えた時、何かの指針があるかの様に思うかもしれませんが、一人一人みんな違うのが当たり前でしょう。

目の前の事や少し先の未来に対する夢や目的は、多かれ少なかれ誰しも持っているでしょうし、自己啓発本を読み、環境を変え、断捨離をして方向を変えようとする事もあるでしょう。

ただ、人生という大きな捉え方をすると、ハッキリと「こうだ!」とは言えないのが現実なのです。

 

明日どうなるか解らない生活をしている人がいるかと思えば、帰る家が無く新宿辺りでうろつく若者達。

死を選ぶ事でしか救われないと考えている人もいれば、「何色がいい」と着ていく服に悩んでいる人もいる。

この違いは、決して本人だけの責任でも選択でもなく、あくまで環境や運によるものが大きいのです。

生れた所や教育、出会う人達や住んでいる地域と、一つでも違えば、今まさにビルから飛び降りようとする気持ちになる事だってあるのです。

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人生に意味付けする事は簡単です。

「誰か人の為」「奇跡の確率で生まれたから」「何となく生きていきたい」「自分でしか出来ない事がある」「夢を叶える為」等など、人の数だけあるでしょうが、それは生きていく中で見つけてきたものであり、人生というひとくくりでの意味では答えにはなっていません。

この世には、自分の力ではどうしようもない事が沢山あります。

コツコツやる事が出来る人や端折(はしょ)るのが得意な人、運動に長けた人や挑戦するのが好きな人など持って生まれたこと以外にも、運不運もあります。

同じ教育を受け、同じ先生に習ったとしても、全く同じ人生を送る事はありません。

例えば努力する事の大切さは解っていても、向き不向きな人がいるのも事実です。

努力すれば報われる為には、運や環境、お金や素質など様々な要因が上手く絡まらないと、そもそもが難しい事であり、皆がみんな報われる事はほとんど無いし、努力が水の泡になる事の方が多いのです。

夢を持てと言われても、その夢さえ描けない人やその他の要因であきらめざるを得ない人も沢山います。

いくら運動能力が高くても、環境や運でオリンピック選手になるか、ただの凄い人だけで終わるかの違いは、本人だけの力ではどうしようも出来ない要因次第で、言い換えればラッキーかアンラッキーだったという事だけかもしれません。

高いモチベーションを維持し、問題をクリアにしていける人達は、努力ではなく夢中になっているからだとも言えます。

すなわち偉人達が言う努力は、本人が夢中になっていた時期を指すかもしれませんし、「諦めるな」「頑張れ」は、人によっては逆に苦痛でしかない言葉かもしれないのです。

でもそれが現実で、名を馳せ、功績を称えられる様な人はほんの一握りなのです。

努力や夢を持つ事を無駄だとか否定している訳ではありません。

同じ価値観で物事が進む事が、万人に通用するという考え方の怖さと愚かさを知ってもらいたいのです。

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考えたような生き方が出来なかったり、夢が叶わなかったりする事は、多くの人が多かれ少なかれ経験していると思います。

だから来世に希望を持ったり、輪廻に願いを込めたり、宗教に運命としての受け止め方、心構えの意味を見い出したりと、それぞれのやり方で、納得させているのかもしれません。

奇跡が起きると思う事も、何か判らない見えない力が働くという感覚も、願望であるにすぎず、歯車がたまたまかみ合ったともいえる時かもしれないのです。

また普段の行いや学びによって、意識せずとも身体が動いている状態の事を指すかもしれません。

突然、災害や事故で無くなる人達にもし奇跡が起きるなら蘇らせて欲しいし、見えない力があるなら事前に知らせて欲しものです。

 

私達は「努力せよ」「あきらめるな」と言われながら、能力や素質に加え、「運」という自分ではどうしようもない事だらけの世の中に暮らしているのです。

たまたま通りがかった道で交通事故に会う人と、一枚だけ宝くじを買って大当たりする人の違いは、運というその人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせによるもので、常にその「運」に左右されながら生きているのです。

血液型や星座など、持って生まれた「運」もどきは、心の持ちように影響を与える事はあっても、どうなるかは、誰にも解らない根拠のないものであり、それが故に逆にそうあって欲しいという願望が信じたくなる気持ちにさせ、物事が動くと運不運を持ち出しているのです。

それを題材にした映画などが多いのも、信じたいが為の題材だからです。

と、言いいながらも「運」がいい生き方はしたいものです。

人知を超えた「運」はさておき、今やれるような事柄でいうと、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」の言葉もある様に、沢山の出会いや多くの行動に関係していて、色々とやればやるほど、確率的に良い結果も増え選択肢も広がり、効率性が良くなり経験がマイナス面を補ってくれ、失敗を回避出来る様になるからです。

結果、運が良かったと感じられるのです。

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例を一つ出して見ましょう。

「犬も歩けば棒に当たる」ということわざがあります。

繋がれたままの犬にとっては、何の刺激も無く弱っていくだけです。

そして犬がジッとしていれば、勿論棒には当たらないでしょう。

そして棒に当たる事は、犬にとっては不運な事かもしれませんが、歩く事で好みの異性と思わぬ出会いがあるかもしれないのです。

散歩の回数が多ければ多いほど確率も高くなり、棒をよける能力も高くなるという訳です。

この場合、犬は散歩の回数をこなす事が努力となり、結果好きな相手と出会う確率が高くなり、すなわち「運」が良くなったという事です。

 

TVでよく見るバラエティー番組で運動選手が的を射抜く競技を見ますが、彼らは一般の人よりもはるかに練習量が違い、的に当てる確率が高いのは当たり前です。

そして、練習そのもが努力と思われがちですが、やりたい事だからという前提があるからこそ練習してきているのであり、他人から見ると努力と見えているだけで、本人にすれば夢中になってやってきただけかもしれません。

ただ人間なので、心理状態や環境に少なかれ影響され、結果によっては運がいい悪いを判断しているにすぎないだけで、いわゆる「この人は持っている」と言われるような得体のしれない力が作用したわけでも何でもないという事になります。

 

何かに夢中になり、続けてきた事が振り返った時に「努力してきた」という表現になるのでしょう。

何かを始めるキッカケは人それぞれで、たまたま興味がそそられたり、湧いたり出来るものに当たった人は、幸運と言えるのです。

そして夢中になる事で、いわゆる「運」が良くなると思えるような事が必然的に起きるのです。

 

結局「オギャー」と生まれた途端、未知なる世界が始まり、運命という名の元、誰かの人生を参考に生きているだけかもしれません。

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時計だったり、車だったり、置物や家具と人それぞれ大切にしているモノがあると思います。

愛着やお守りといった意味合いで大切にしているモノです。

ですから、傷をつけないように壊れないように丁寧に扱っている事でしょう。

私達の身体も、そのようなものなのです。

生れて与えられた身体に愛着を持ち磨き上げ大切にして、月日に、時間に委ね、壊れるまで責任をとらなくてはならないのです。

すなわち、身体を借りていると捉えてもいいかもしれません。

ですから乱暴に扱ったり、誰かを傷つけたりする事を良しとしないのです。

この星に人間という器を与えられ生まれたという、どの人種にも当てはまる共通認識の感情の部分であり、それこそが「人生」というひとくくりでの意味なのです。

 

人生は、あなただけのものでは無いという事が前提であり、

何か目的を達成する為や、良い行いをする事、

社会に貢献する為や幸せになる事の前にある、「意識」すなわち人間として生まれたからこそ持ちえた、共感共鳴謙虚さ想像力といった感情が、

人間という器に組み込まれている事への「気付き」なのです。

 

自分の事として感じられる心や、守ってあげたい気持ち、居て欲しいと願う祈りや死んで欲しくないという根本部分の事です。

その気付きこそが、人生に対する肉付けの源になり、一人ひとりの生きがいや目標になるのです。

 

ヘイトや憎悪、差別は過去何度も繰り返されてきました。

国や民族という大きなくくりだけでなく、身近でも、容姿や考え方の違う人、外国人や障害者の方たちへの差別やイジメといった恥ずべき事は相変わらず無くなってはいないのです。

「ありがとう」「ごめんなさい」を言えない、人間の皮を被ったまがい物です。

「気付き」が出来ない心無い人達にとっては人生を語る資格もなく、生まれたその訳を勘違いしている可愛そうな人達なのです。

そして、そんな人達には、ハッキリと「気付き」の大切さをもって、毅然とした態度で接する事が、心ある人に変わるキッカケにもなるのです。

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人生は人それぞれの時間と長さがありますが、コントロールする事はムリです。

この限られた大切な時間を、借りている大切な身体を使って何をするか?

それは、苦の中で一瞬輝く幸せを味わう事であり、人生を遊ぶ事です。

だから個々に人生の意味なんかはありませんし、探っても答えは見つかりません。

仲良く遊び、やがて還るだけなのですから。

何が起きるか解らない危険な場所でもある自然の中に身を置き、陽が落ちるまで大好きな人達と遊ぶ時間はスリルに満ち、かけがえのない時になるでしょう。

その為には、例え束の間の時間だとしても、生きる続ける事が必要なのです。

何があっても生き続ける事。

そして人生を遊ぶ。

遊びは夢中にさせてくれる最高の題材だからです

 

いくつになっても

夢中になれるものはある

つまらないものでも、何でもいい

役に立つか立たないかなんて、どうでもいい

ルールも無いし、自由なんだから

いつの間にか

楽しくなって

自然と身体が動き出すような

踊りたくなるようなモノなら

もっといい

遊ぶような気持なれば

もっといい

 

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信じる事、信じ続ける事

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理想と現実は生きていく中、誰しもぶつかる問題でしょう。

世の中を見回しても、なぜこんな事が許されるのか?なぜ人間同士がいがみあうのか?

日常でも、真面目に生きても報われない?正直者では損をする?というような方向に考えが生きがちです。

 

たった一度きりの人生

大切な時を刻みながら

毎日毎日飽きるほど

奇跡を味わって

先の見えない連続を

僕らは当たり前だと装って

いったい何を求めているのか

何を期待しているのか

こんなにも切なくなるほど

生きているのに

 

世の中には理不尽な事が沢山あります。

偉人達はその理不尽さをどう理解し、どの様な心持でいるべきかを様々な言葉で残しています。

アインシュタイン

「If people are good only because they fear punishment, and hope for reward, then we are a lot indeed. 」

『もしも人々が罰を怖れ報酬を求めるというただその意味でだけ良い人間であろうとするのなら、私たちは本当に哀れな集団である。』

と残しています。

 

生きている中で、また何かの困難に見舞われた時、名言や言葉が正しい方向を示し導いてくれます。

例えば、聖書や孔子の言葉である『罪を憎んでも人を憎まず』すなわち「人は元来、善なもの」とも言えますし、

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ウィキメディア・コモンズより

『独立の気力なき者は必ず人に依頼す。人に依頼する者は必ず人を恐る。人を恐るる者は必ず人に諂(へつら)うものなり。

常に人を恐れ人に諂う者は次第にこれに慣れ、その面の皮鉄の如くなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。』

という福澤諭吉の言葉には、「自己の中に確たるものを持ち貫く大切さ」を表しています。

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ウィキメディア・コモンズより


また、アナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt)アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻(ファーストレディ)の言葉

「Learn from the mistakes of others. You can’t live long enough to make them all yourself.」

『他人の失敗から学びなさい。あなたは全ての失敗ができるほど長くは生きられないのだから。』

からは、「流されるのではなく、時間を大切にし日々学びなさい」という意味が読み取れます。

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ウィキメディア・コモンズより

「Live your life as though your every act were to become a universal law.」

『自分の一つ一つの行為が普遍的法則になるかのように生きるのだ。』

イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、ドイツの哲学者の言葉

「模範となるような、名誉となるような生き方をしなさい」という意味になるでしょう。

 

「Have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become.」

『あなたの心と直感に従う勇気を持って下さい。それらはどういうわけか、あなたが本当になりたいものを既に知っている。』

ティーブン・ポール・ジョブズ(Steven Paul Jobs)アップル社で有名なアメリカ合衆国の起業家のあまりにも有名な人の言葉。

「周りに流され、我慢している事の愚かさと、元から兼ね備わっている自分という代えがたい存在を無駄にしてはいけない」という意味にもとれます。

 

有名なアリストテレス( Aristotelēs)古代ギリシアの哲学者

Courage is the first of human qualities because it is the quality which guarantees the others.」

『勇気は人間の第一の資質である。なぜなら、他の資質の土台となる資質であるから。』

文字通り、勇気の大切さを語っているものであり、「何事も信念を貫く勇気を持ち、自分の行動一つで変わっていくものだ」という意味に捉える事が出来ます

 

『金がないから何もできないという人間は、金があってもなにも出来ない人間である。』

江戸時代を代表する俳諧師の一人である小林 一茶の言葉です。

「お金に囚われる事なく、違う価値観を持て」ともとれる言葉でしょう。

 

今まであげてきた偉人達の言葉は今なお通用する言葉ですが、多くの人達は「解っているんだけれど……」「現実は違うんだよなぁ……」という捉え方になってしまいます。

映画や本などの世界では、正義が勝つし、勇気を持って挑んだ事柄には、ちゃんとそれに見合うような、言い方は悪いですが対価も得られる設定が多く、名誉や高潔さに対する賛美も多くみられます。

お金に関しても、お金が全てでは無いという事は頭では解っているのですが、現実問題としてお金が必要だと、大半の人が考えるのも当然だと思います。

また「愛」についても永遠なるモノであり、真実の愛こそが何事にも打ち勝つ力であると思ってはいるのですが、実際に自分の身の回りでの「愛」に対する捉え方とのギャップに開きが大きく、それは映画や芝居の世界の出来事として、あくまでも理想という形で解釈しているのでしょう。

いわば理想と現実があり、私達はその狭間の中で揺れ動いているのでしょう。

 

儒教に、五常(仁、義、礼、智、信)という言葉が出てきます。

一つ一つの漢字を見れば想像が出来ると思いますが、改めて、漢字の持つ力には驚きますし、その文化が今もなお受け継がれている事に感謝です。

個々の意味は、調べればすぐ出てきますので、ここでは省きますが、読んで字のごとく、人として生きて生きていく上での大切な言葉ですが、その元になる素質は生まれながらにして持っているものであり、だからこそ、身に付け、自分のモノとして磨き上げていく事の大切さを説いているのですが、私達は色々な理由をつけ、いつの間にか理想、そうでありたいと言い訳をするようになってしまいました。

そして知らず知らずのうちに、自らの世界を狭めていているのです。

諦め、妥協する数がどんどん増えていき、先延ばしにしチョとしたことで悩み苦しむようになってしまっているのです。

自ら問題を抱え込み、それも次から次へと。

安心できないのです。問題が無くなる事が。

落ち着かないのです。

周りがまるで置いてきぼりを食わしているように見えるのです。

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私達は子供に対して「嘘をついてはダメ」「正義の味方は必ず悪に勝つ」「やる気を出せ」「夢を持ち、いつか必ずあきらめなければ叶う」「愛は地球を救う」と教えてきました。

しかし同時に子供達は、夢の無い大人の後ろ姿を見続けながら大きくなっていくのです。

あくせくしながら毎日文句を言い、見えない所でズルをして誰かのうわさ話をし、自らか叶えられなかった夢を子供達に押し付けるのです。

そう、小さな大人なの世界を見せ続けながら。

 

狭い世界からの抜け出る唯一の方法は、「謙虚さ」です。

謙虚さには、想像力が伴います。

何故なら、既に思いやりが隠れていて、想像力が痛みや悲しみを共有させてくれるからです。

共有は、やがて喜びと変わり世界が広がるのです。

自信の無さからくる謙虚な行動や、優しさを謙虚さと勘違いしてはいけません。

謙虚さに自信があるか無いかの裏打ちなんて関係ない事です。

「謙虚な人だけど物足りない」「謙虚な態度だけど、自分の意見を言えない人」

それは、謙虚さと何の関係もない、謙虚の意味を解っていない人の言葉に過ぎず、

そもそも謙虚さは他人を必要としない、自分自身の力なのです。

学びの源にもなり、自制心を作り出し、相手の良さを引き出す事が出来るものです。

自身の世界が広がる事は、見方を変える事が出来るという事です。

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毎日通学路に立つ、歳をとられた70代ぐらいの女性の交通安全員の方を見ます。

自転車で季節を問わず同じ時間に同じ場所に行き、旗を掲げ、ドライバーに頭を下げ、子供達の安全を見送るその方の事を考えている人は、きっと一握りの人しかいないでしょう。

風景の一部としてただ、流れていくだけかもしれません。

決して夢を与えている訳でも、正義を振り回している訳でもありませんが、ただそこには、暖かな優しさに溢れた空間があるのは事実です。

この国は、そんな名も無き人達で成り立っている事を忘れてはいけません。

 

私達は現実とのギャップを感じながらも、理想とするものを持ち続ける事の大切さを知っているはずです。

それは、人間として生まれた、人としての本質の部分であるからです。

例え現実がそうでなくとも、絵空事であったとしても、そうありたいと願い続ける事を諦めてはいけないのです。

そこに見出されるものは、他人や社会という基準ではない自分に対する自分の想いだからです。

自らが尊いものを持って生まれ、それは善の素質を持ち、勇気が後押しをする夢や希望は、例えその通りの世界でなくとも、例え大人になろうとも、持ち続け、死ぬまで信じ通すべきなのです。

だからこそ、その想いが「魂」となって受け継がれてきているのです。

それはまた、滅びる事では無いという裏打ちでもあります。

 

君がいずとも、地球は回る

でも

君がいれば、世界が変わる

君という基点は、常に新しく

方向性を指し示すだろう

それは繋がりによる可能性であり

君無くしては、始まらない

君がいる奇跡は、既に用意され

そうあるべきして

この世に産み出された

だからこそ、命の連続は

君無くしては、始まらない

 

もしかしたら信じる事は、時には嘘をつく事になるかもしれません。

しかし人間であるならば、可能性を持ち続ける力は備わっているはずです。

例え理不尽であろうとも、理想と程遠くても自身に問いかけ、人としての「道」に軌道修正しても遅くはありません。

 

尊厳という言葉があります。

死者に対する弔(とむら)いにも通じる重い言葉で、広辞苑大辞泉では、「とうとくおごそかで、おかしがたいこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま」と説明されています。

尊厳は、人から与えられるものでは無く、自身を律する「憲法」の様なものです。

歴史が積み上げてきた、知恵と勇気の賜物なのです。

どの時代にもその様な心を持った人がいたからこそ、今私達が存在しているのです。

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信じる事、信じ続ける事

子供達に教える大切なメッセージは、大人にこそ必要なメッセージなのでしょう。

あなたの肩から後ろになびく、赤いマントの様に!

 

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今、私達が考えなければいけない事

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生きる全ての源は

この星の寛大さと果てしない時間で

謙虚という秩序の下に許される

なぜ、分かり合えない?

なぜ、認めあえない?

憎しみや、悲しみを

生み出すのは、なぜ?

この星は、そんな事の為に

時間を使う事を嫌う

もういいだろう

十分だ

愚かさは血の色で

日が沈む色

悔い改める為にまた陽が沈む

 

昨年から始めたこのブログ、週に2回記事を更新するつもりで書いてきました。

記事の元になるテーマや内容は、20代後半から書き溜めたノートがあり、自問自答した内容を書き止めていて、それを記事として構成しながら書いてきました。

今年2022年になり、身近ではコロナに息子がかかり濃厚接触者になったり、息子の進学等、金銭的にもかなり追い詰められていて、なかなか記事を書くことが出来ませんでした。

加えて戦争や子供の虐待など暗いニュースが毎日のように流れ、自身の病気(精神的な)も重なり精神的に不安定になってしまいました。

記事のストックもあるのですが、今の世の中に対して実生活を照らし合わせた時のギャップが大きく、なかなか更新する事をためらっていました。

 

これほど毎日のように沢山の命が脅かされ、奪われていく惨状をリアルタイム同様流れているのは、私の記憶では無かった事です。

今までも数多くの紛争や戦争もTV等のニュースで流れてはいましたが、どこか遠い国の出来事として捉えていた気がします。

ただ大きく違う点は、依然と比べ圧倒的な普通の人々による情報発信のせいで、より身近な出来事として受け止められるようになった事で私の受け止め方もかなり変わってしまいました。

普段と変わらない生活と同居している戦争という非現実な世界を目の当たりにし、心が落ち着かなく、そわそわし、追い立てられるような毎日となっているのです。

 

TVでは相変わらず、消費を促すような宣伝や大食いばかりですし、ニュースの中でもグルメやチェーン店の宣伝の肩代わりするような番組構成で相変わらず放映され、どうしてもマスコミの在り様に納得が出来ないのです。

 

物価やモノ不足による値段上昇等、値上げの話には敏感ではあるのですが、ではなぜそのような事が起き、何が原因でどうすべきかの政府の危機管理や方向性の指針がほとんど伝わらない、いや伝えようと奮闘しない公共放送を始めとしたマスメディアに、正直あきれ返っています。

一方で輸入に多くのモノを依存している日本という国に対する私達も含めて、あまりの危機感の無さに驚くばかりです。

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そして、戦争に関する問題も、地理的にも西側諸国に近く白人(偏見ではありません)という事もあり、マスコミやネットでは大きく取り上げています。

それは、民主主義を守る上で、とても大切な事ですが、戦争や紛争、人権侵害は世界中あちらこちらで起きている現在進行形であるという事を私達は忘れてはいけないのです。

北朝鮮の拉致に関しても、全く進展していない事も思い出して欲しいのです。

シリア難民や香港やウイグルミャンマーといったアジア圏の問題もしかりです。

この報道の在り方は、情報量や目にする時間も含めあまりにもその温度差、違いすぎる事にも注意を向ける必要があるのです。

また、国内ではこの機会を利用し、どさくさに紛れるように核保有や核共有の話まで出てきています。

日米地位協定といった他国とは圧倒的に不利な条件で、変えようともしない現実を横に置いたまま、核の議論を持ち出す愚かな人達。

今起きている事実を直視し分析し、過去から学ぶという当たり前のことをせずに、いったい何をやりたいのか私には理解できません。

 

日本国憲法(前文)抜粋

『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことにのみ専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達することを誓ふ。』

 

そして、日本国憲法第九条には、以下のように記されています。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇(いかく)又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

世界に誇れる憲法を持ったこの国。

憲法は、この国の理念を表すとともに、権力を持った人間や組織が暴走しない為にあるものです。

理想主義者のたわ言と思われるかもしれませんし、上辺でしかモノを見る事が出来ないと批判があると思いますが、誇れる日本の憲法の理念をこれからも持ち続けていきたいのです。

 

こんなご時世だからこそできる事、伝えられる事が沢山あるはずです。

SDGsを絡めても良いし、食品廃棄や規格、賞味期限などの問題を深く掘り下げる事も、いい機会になるはずです。

一例をあげて見ましょう。

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日本に給食が導入されたのは1889年で、徐々に制度が作られていくのですが、一説によると戦後ごはんではなく、コッペパン等の小麦を使用したのは、幼い頃から小麦の味を覚えてもらい、将来にわたって輸入してもらう為のアメリカの戦略という見方があります。

またファーストフードも同じ理由で、幼い時の記憶を次の世代に伝え、消費してもらう為だとも言われています。

仮面ライダーウルトラマンドラえもんと同じ理屈です。

したたかな戦略と言わざるを得ないこのような事も、食糧事情や国の行方と合わせて考え、見直す機会にもなるはずです。

 

娯楽番組が悪いとは思いませんし、笑いや心が暖かくなる話題は、精神的な意味からも必要な事ですが、まるで横にならえの様に公共放送までが同じ内容なのです。

例でいうと毎日のように、TVやSNSでペットの可愛い映像を流していますが、2020年4月~2021年3月の間に殺処分された犬猫は、減少傾向とはいえ23,764頭に上るのです。

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例えばフランスでは、ペットショップで2024年から犬や猫の店舗での販売が禁止されることになりました。

このような事実も合わせて報道する、伝える義務があるのですが、「可愛い」という情報ばかり垂れ流しているだけです。

 

課題として考えなければいけない事は沢山あります。

コロナで奪われた若者達の時間は、大人の時間とは比べようがないほど大切な時間です。

今の大人達が失われた時間を、どう補ってあげられるのか?

経済低迷やコロナなどでの生活困窮者の増加や、増え続けるお年寄りと老後、家時間の長さで生じる、様々な負の問題も顔を覗かせています。

だからこそ、子供達の未来や食べ物の大切さ、電力資源問題など多くの事を取り上げ、考えていくチャンスであるにも関わらず、なぜこんなにもマスコミは偏った見方ばかりなのでしょうか?

本来マスコミが持たなければいけない力がなぜ無くなってしまったのでしょうか?

なぜ深堀し、問題提起をしないのでしょうか?

今回のウクライナで起きている戦争で、ロシア側のマスコミが自由に発信する事を規制されました。

ロシア国内の一般人が一方的な情報しか得る事が出来無くなったという事です。

これは、情報統制という権力側に都合の良い常套手段で、過去の日本でも同じような事が行われてきました。

歴史を振り返ると湾岸戦争もしかり、北朝鮮や中国も今なお行われている事です。

いかにマスコミの力が弱くなると、とんでもない事になるという事例で、日本でも森友・加計問題や厚労省の統計不正、国土交通省の「建設工事受注動態統計」のデータの書き換えなど、政府に都合の良いデータの改ざんを、もし見抜けなければ国民にとっては大きな損失になるばかりか、情報操作、統制に繋がる危険な事になる可能性があるのです。

 

例え日本が戦争という悲惨な出来事に巻き込まれなくても、大災害が起きる確率は高いままです。

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日本という立地上、火山国であり四つのプレート(地球の表層部を覆う非常に硬い地塊)の境界線に位置し、日々地下では変化し続けている現状を忘れてはいけません。

今、色々な問題をあぶりだし、解決の糸口を見つけるチャンスではないのでしょうか。

先の食糧、経済、エネルギー問題に加え、原発の在り方も含め、電気の依存度が高い今の生活をどの様にしていくのか、もっと社会全体で議論してもいいのではないでしょうか?

戦争に見るライフラインの寸断は、決して他人事ではなく、我身に置き換えて考える事でその大切さをより感じる事が出来ます。

カードは、ただのプラスティックになり、タワーマンションは孤島になります。

夜は暗く信号機も点きませんし、情報は運が良ければ他国からの放送を聞く事が出来るかもしれません。

オール電化住宅では、食べ物にも事欠くでしょうし水もすぐ手に入らなくなり、商店からモノが全て無くなるでしょう。

怪我や病気になっても、助かる確率は数パーセントになり、一部外国の様に高速道路を滑走路として使用できるような造りになっていない為、大量の物資を遠くまで運ぶ事は困難になり、やがて物流も止まり、電源喪失による原発メルトダウンが始まり、後は死を待つしかなくなる事だってありうる話なのです。

 

日本は、資源や食物も、経済までも輸出入無くしては成り立たない国となっています。

維持するその前提となるのは何より平和であり、信用なのです。

ビザ無し渡航国数、最強のパスポートと、しっかりとした裏打ちのある「円」という通貨を持つ国が日本です。

それは、様々な国に貢献してきた、そして今なお活動している名も知らぬ人達のお陰なのです。

加えて、唯一の被爆国であるこの国の役割は、非常に重く大切な事なのです。

 

全ての人と仲良くする事は出来ないでしょう。

まして、殺された側の気持ちを考えると、報復や逆襲をする事を頭から非難する事は出来ません。

軽々しく、争いを悪と決めつけられないのも解っています。

私がもし家族を殺されたと思うと、許せるほどの心持もありませんし復讐するかもしれません。

ただ、この国に生れた意味と自分の中の人間性に、希望があるような気がするのです。

だからこそ、それでも武力という未来を描けない手段に頼ることなく希望を持ち、意志を貫く覚悟と、憲法が指し示し、誓う言葉の重みを忘れない事が、世界に対するこの国の大きな役割だと思います。

世界中から尊敬される国であるべきなのです。

数多くの様々な戦争や災害で命を無くされた方の想いは、後世に託した魂は、平和の大切さと生きる事の素晴らしさであり、もし、その意に反する事が成されるなら、その方向に進むとしたら、亡くなった人達の想いを踏みにじる事になるのです。

それが、亡くなった多くの人達への供養であり、誓いと私は信じています。

 

この美しい、かけがえのない地球。

きっと、悲しんでいる大きな存在がいる。

私達は、何の為に、何をする為、ここにいるのか。

この星が、望んでいる事は、今のような世界ではないはず。

与えられた、命を、夢を、灰色の絵具で塗りつぶして、

誰が、喜ぶだろうか。

 

この星の拡散する青色の下には、深くまで届く豊かな彩りがあり、

調和に満ちた光に満たされている。

それは、この星自らの、住人達への贈り物。

 

気付くと、答えてくれるこの星の忍耐に、

いつまでも甘えてはならない。

願わずにはいられない。

奇跡の星が望む、かけがえのない命の継続を。

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Gerhard JansonによるPixabayからの画像

 

余談ですが、TVや映画でみるSF作品のスタートレック宇宙大作戦)の世界では、貧困や戦争などが地球上から根絶されており、容姿や無知から来る偏見、差別も存在しない理想的な世界感で描かれており、貨幣という概念はなく、富や欲望とは無縁で、人間性重視で働いている為、無給なのです。

新たなる世界を求め、宇宙へと飛び立っていく夢に溢れた未来。

帰って来た時に、国境線の無い青い地球がある事を信じ、こんな日が、いつか来ることを願って!

 

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私達は、何の為生まれたのか?(3)

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人間以外の生物は、むやみに殺生や破壊はしません。

生きていく上で必要最小限に行うだけです。

(一部チンパンジーの中で、同種を殺す事はありますが)

予め食料を備蓄するといった知恵を持った事で、この地球上に繁栄をもたらしてきた私達人間ですから、動物のように、一日一日生き抜く為だけの生活から解放されました。

私達は多くの他の生物の犠牲によって今日の繁栄があるわけですが、特に先進国において、私達は加工された食べ物として店先に並んでいるのを見るだけで、動植物の捕獲や殺生を見る機会がほとんどありません。

それが良いか悪いかは別として、食べる為、生き長らえる為に、殺すという行為の上に成り立っている事を忘れてはいけないのです。

食べる為に殺したなら最後まで責任を持つ。

すなわち、ちゃんと綺麗に食べる事、無駄にしない事。

それがこの地球上での大きな流れ、食物連鎖の中での生きていくルールなのです。

このルールを守らなければ連鎖の輪が切れ、ルールを破った物はやがて絶滅するのです。

 

さて、人間は人を食べる為に殺すわけではありません。

戦争や犯罪等、権力や利権、人種や民族や宗教、利益や豊かさの為、ひいては自己中心的の為、人が人を殺すのです。

そういう意味でいうと間接的に生きる為の手段としてやっていると考えられなくも無いのですが、その為の殺生、すなわち、どの様な殺人が正当化されるのでしょうか?

人はひとりでは生きてはいけません。

たとえ直接つながりが無くとも、何らかの形でお互い支えあっています。

人の生まれた目的は、人という種、遺伝子を絶やさないようにする事です。

何らかの形でお互い支えあっているという事は、衣食住だけでなく誰の子であれ、人間社会全体で子育てをして子孫を残しているわけですから、その一員である人間を殺す事は、多くのリスクを背負う事になります。

人間という種の中の多様性が脅かされるからです。

そして何より殺したら元には戻せません。不可能です。

私達は、虫一匹でさえ元には戻せないのです。

人が人を殺す事はとてもとても愚かな事なのです。

殺人はどのような事、理由があっても正当化はされないのです。

殆どの人間が、人が殺される事を良しとしないのも、おぞましい愚かな事だと思うのも、人間が自然から与えられた本能に基づいているにほかなりません。

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私達が生まれた訳は、同じ人間同士殺し合う為に生れた訳では決してないのです。

地球上のあらゆる場所に住み着き、環境に順応していった人類。

それは、生き延びる為の戦略の結果で、数が増えるのに従い、より良い食べ物を得る為や、敵と遭遇しない為、子供を安全に育てる為の選択でした。

そして、移動手段が人力から機械に変わり、人類全体が地球上を行き来する時代になりました。

世界の総人口は約76億7696万人(WHOが発表した2021年版の世界保健統計)で、毎年増加傾向で、ここまで人類は数を伸ばし続けてきたのです。

 

勿論、科学や医療体制の充実や安全保障といった知恵のお陰ですが、それは一方で自然がその様な流れを導き出しているとも言えます。

人間は自然の一部だからです。

この星が、どれほどの人間に対する包容力があるのか解りませんが、これもまた自然の選択であり、まかせるほか仕方が無い事でもあります。

 

数々の争い事で、人類は多くの犠牲を払ってきました。

それは、誕生して以来持ち続けている、古い脳の部分で起きる、「生き延びる(生命を維持)」「食欲(安全意識)」「身の危険からの反射的な体の反応、逃げたり攻撃したりする(防衛本能)」等が働く為ですが、新しい脳も手に入れて、自分と他者の関わり合いの必要性から、言語や感情の表現も含めたコミュニケーション能力も持つ事になりました。

感情という複雑な思考も出来るようになって、今日に至ります。

近年、アフリカを始め、家畜を襲う猛禽類穀物を狙う動物達が増えています。

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日本でも、サルや鹿、ハクビシンなどの野生動物の生活圏侵入による様々な被害が見受けられます。

環境破壊や生活圏の拡大で、食物を得られなくなった為ですが、それは生き延びる為の本能によるもので、選択肢が無い事、すなわち人間の様に備蓄したり、機械を使う脳を持っていないからです。

同様に、侵略や搾取する人達は、進化によって得た脳を活かせない大変愚かな人達という事です。

そんな中で、人間脳(想像力や共感等)と言ってもいいような脳の領域を使う人達のお陰で、争いが起きても歯止めをかける事が出来るのです。

ただ、歴史を見ても分かる様に、いつまでたっても人間は古い脳から抜け出せない動物という事でしょう。

 

私達は、連携する事で色々な困難を克服してきました。

それは、色々な人達の頭脳の結集にによるもので、多様性のお陰と言ってもいいでしょう。

色々な考え方を持つ人、そして個々の育った環境や教育といったバックグラウンド、すなわち違ったものが多ければ多いほど、多様性がが多いほど、新しいものが生まれ、困難を乗り越える知恵が生み出されるのです。

たった一人の考えが、世界を大きく変える可能性もあるのです。

その為には、どんな人の命でも粗末に扱う事をやめなければ、人類にとって大きなマイナスになります。

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記憶する事、それを残す事や検証する事が出来る素晴らしい能力を持った人間が、多ければ多いほど、

危機を乗り越える為の英知の結集が出来るようになり、乗り越えられることが出来るからです。

 

私達がこの地球を故郷として誕生し、自分に対し「何の為に生れたのか?」という疑問を持つ事は、誰にでもあります。

学校や仕事、家庭が上手くいっていない時や、自分に自信が無くなった時など、前向きに生きられない状況、夢を描けない時によく考えてしまいます。

生まれた訳が、幸せになる為だとしたら?まず難しいでしょう。

このブログでも書いていますが、生きていく事は苦難で、簡単な事では無いという事を前提として考えなければいけません。

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「幸せ」は、意外と振り返った時に解る事が多く、苦難や苦しみがあるからこそ、見えてくるものです。「幸せの見つけ方(1~4)」の記事を読んでいただくと解ると思います。

誰か他人の為?他人と為に尽くす事で、「幸せ」と感じる事は、とても大切な感情です。

尊いこの考え方も、それを実行している人達には頭が下がります。が、それはその人の生き方の結果であり、根本の事ではありません。

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(ウイキペディアより)

 

エジソンが、アインシュタイタインが生まれ、人類に貢献したのも、生き延びたという前提があったからこその結果です。

両者ともまともな教育を受けず、独学で勉強していますし、私生活においても、決して幸せとはいえる様な結婚生活ではありませんでした。

エジソンは特許にこだわり、お金に対してもシビアだったと言われています。

アインシュタインも、二度の大戦を経験し、ユダヤ系だったこともあり、大変な苦労をしていたのです。

もし、彼らが生き延びていなければ、人類の進歩は大きく後退していたに違いないのです。

そして、彼らを取り巻く人達の存在も無視できません。

家族も含め、出会った人々がもし別の人物であれば、運命も大きく変わっていたでしょう。

 

すなわち、その時代時代に一人一人が生き、関りがあったからこそ、今の私達があるという事です。

生きる事で可能性が増え、多様性が選択肢を生み、間違いを正す人達が増えていくのです。

有名になった人達の裏には、多くの無名の人達の人生があり、誰が欠けてもダメなのです。

個々の「何の為に生れたのか?」に対する答えは、人の数だけあるでしょう。

ただ、人間としてこの世に生を受け、生きるその意味は何なんだ?という事ならば、人間としての生物が生き残るという事、すなわち可能性を生み出し、過ちを繰り返さない知恵と、その為の多様性の為、どんな事があっても「生きる」という事なのです。

たった一人の命も、無駄にしてはいけないのです

 

過去の大戦でも多くの命が奪われていきました。数字にするとただの知識で終わってしまいますが、彼ら彼女らは、未来の可能性を信じ、残された人達に想いを託し亡くなっていったのです。

もし、死んでいなければもっと素晴らしい世界になっていたかもしれません。

この時代になっても、相変わらず利権や権力の為に多くの命が奪われています。

だからこそ何より可能性に満ちた子供達の命を守らなければいけないのです。

それが、私達が生まれた訳です。

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帰りを待つ身に

物言わぬ白黒が

帰りたいと手の中で

震え涙で曇るその幼さ

無理やり大人にさせられて

守り抜いた信念は

代わりに生きろと散っていく

帰れぬ想いは海に乗り

流れて着いた76年の風便り

今年もまた夏がくる

 

小さな世界観で、「何の為に生れたのか?」の答えを探っても、意味なんかありません。

誰かやモノと比べるだけで、押し問答と同じで、右往左往し一喜一憂するだけです。

「意味があるから、生まれた」という事へ世界観を広げて、まるで鳥瞰図(空を飛ぶ鳥の目からみるという意)のように、視点を変えて見直してみる事が大切な事なのです。

 

沢山の経験をし、多くの人と語らい、過去から学び、日々の学びが、訪れるであろう苦難や危機の時、愛する人や、弱い立場の人、子供達を守る為の力になります。

あなたの世界が広がる事で、周りの人達の世界も広がります。

何をするかは、生き抜く事で内側から出てくるエネルギーが教えてくれるはずです。

そう、何があっても生きる。

生きて、あなただけにしか出来ない想いを伝えるのです。

 

その内なる強さは境界の線引きをしない

人を選ばず、動じず、時に石のように

時に雑草になり見守る

見返りそのものが、意味の無い期待であり

入り込む余地が無い

謙虚であれ

故に

始まりにして終わりである

 

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約束

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中学生の頃、先輩に憧れて体操部に入りました。

朝早くから、夜遅くまで練習していましたが、鉄棒の種目が苦手でした。

それは、鉄棒種目には欠かせない蹴上がり(けあがり)が出来なかったからです。

それを見かねた顧問の井上先生が中一の夏休み、毎日私の為に時間を作って、マンツーマンで教えてくれました。

そして、始める前に先生と約束をしたのです。

「絶対に出来るから頑張ろうぜ!あきらめるな!」と。

そして夏休みの後半、突然コツをつかみ出来るようになったのです。

夏休み明け、先生は私の所に来て「頑張ったな!」と言い、体操用の半パンツをプレゼントしてくれたのでした。

体操部はスポーツ刈りの髪形にしなくてはダメだったのですが、頭に怪我のハゲがある事を知って、

「お前は、長めのスポーツ刈りでもいい」と言ってくれた優しい井上先生との約束は、絶対に守ると、決めていました。

約束が守れたこともそうですが、何より笑っている先生の顔が私にとっての最高のプレゼントでした。

今思えば、夏休みでも忙しい先生が、約束を守る為に毎日付き合ってくれた事は、私の心に深く残り、名前も優しい顔も、40年以上たった今でもハッキリ残っています。

 

幼い頃、祖母や叔父は、たわいのない私の約束をちゃんと守ってくれました。

大人になるにつれ、私の周りは「約束」が「規則」になっていきました。

それは、互いにするものでは無い、一方向からの強制です。

そこには、何の裏打ちも無いただ、そういうルールという言い訳ばかりでした。

規則は、課した相手に責任を取らせるものです。

課す側にとっては、こんな都合のいいものは無いのです。

時代背景もありますが、今もあまり変わっていない気がします。

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出来ない約束は、しない方がよっぽどいい

約束は、飾り物では無く、誓いであり果たす事

約束を破る事は、自分に対する裏切り。

だから

もし、約束を果たせなかったら、素直に心を込めて謝る。

例え、謝罪して相手が受け入れてくれなくとも、それは、あなたへの教訓であり、学びになる。

言い訳は、あなたの約束を、陳腐で上辺だけなモノにする。

 

美辞麗句で使ったり、上辺だけ取り繕う為な約束も、その時だけのその場しのぎでしかありません。

 

沢山の約束なんて出来やしない

痛みと悲しみを知らない約束なんて

これっぽちも届かない

心無き約束の繰り返しは

グリムの三度目に来るオオカミになり

自らをおとしめるだけ

 

ちゃんと約束をしよう。

自分に対する約束でもある「約束」。

声に出さなくても、貫ける大切な約束を。

そんな沢山は出来ないけれど、自分に対する挑戦にもなる、試す事にもなる。

愛するものを守り抜く事でも、やりたい事を実現する事でも、成りたい自分像でもいい。

どうせなら、約束の先に景色が見えるモノがいい。

果たせたとき、笑顔がこぼれるような約束だと、なおいい

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児童虐待育児放棄など、悲しい事件が後を絶たない現状です。

子供を授かる事は、子供が一人で生きていけるまで、見守り、育てるという大切な約束です。

勿論、両親はもとより社会全体の大人達がする、子供達への大切な約束です。

弱い立場、自己主張が満足に出来ない相手を守る事は、人間として、いや生物として必ず果たさなければいけない自然、本能が求める約束なのです。

それは、子供達だけでなく、社会的弱者や障害を持った方へも同じです。

そして誰もが守らなければいけない、唯一の人類共通の命に対する約束です。

約束の裏には優しさと強さが隠れています。

弱い、虚勢を張る、自分本位の人には口先の約束は出来ても、大切な約束は出来ないのです。

 

本当の意味で、人生の中で大切な約束をする相手は自分自身と、後は数人ほどしかいません。

それは、人生の節々かもしれないし、大きな出来事(病気や事故、思わぬアクシデント)の時かもしれません。

 

人は時々、目標や希望を失い、生きている事の意味を自分に問いかけます。

挫折やあきらめが顔を出し「何の為に生きているのか」と。

人生という道は、日々の積み重ねであり、階段を下りたり登ったりしているようなものですが、

必ず、前には進んでいるのは間違いありません。それも100%の死へと。

 

だからこそ、生きている間にあなただけにしか出来ない「約束」を大切な人や大自然と交わし、生きていく糧(かて)とし、生き抜く力に、励みにしていくのです。

誰にでも出来る口約束では無く、あなただけの約束です。

 

約束は自分にもする言葉

「また、会おう」は、来世へと

「忘れない」は、魂の誓い

「守ってみせる」は、命への祈り

「だいじょうぶ」は、勇気の始まり

「必ずやるから」は、戒めとなり

「言わないで」は、慎みを

「裏切らない」は、希望になる

 

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「約束」は一方通行ではありません。

相手の、自分の心の中に灯す明かりなのです。

フッと消える沢山の明かりの中で、いつまでも輝いて消えない明かりが「約束」です。

どれほど時間が経とうとも、その明かりは消える事はありません。

受け継ぎ、次の世代にその明かりを灯すのも、今生きている私達の役割であり、それが約束なのです。

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この世に生まれ、生きていく意味は

そう「明日もここで遊ぼうね」という約束の様なもの

愛している人がいるなら

気持ちをちゃんと伝えましょう

目に焼き付けておきましょう

あなたの優しさが

愛する心が誰かの心の中で生き続けるように

明日、何が起きても

愛する人の記憶に残るように

それがあなたに出来る

あなただけの大切な約束

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長いようで短い人生に

あなたと、遠い約束を交わしたい

いつか、生まれ変われるなら

また巡り合えるという約束を

しっかり、あなたの手を握り

今度は、もっと回り道をして

たくさん景色を楽しめるように

溢れるほど語り合おうと

心残りを残さぬように

刻みながら歩んで行こうねと

 

そして約束はGIFT、言葉の贈り物なのです。

もらって嬉しい顔が浮かぶような、そんな贈り物です。

相手が受け取るか、気に入るかは分かりません。

そんな事どうでもいいからです。

忠犬ハチ公の話が、走れメロスの物語が受け繋がれていくのも、自身に対する約束を守り通した、生き方そのものに対する姿勢に共感出来るからです。

そして、

小さな子供が約束をする時を見れば、解る事でしょう。

叶えてあげたくような、優しい気持ちになれませんか?

 

このブログでも何回か書いていますが、

明日何が起きるかなんて、誰にも解らないのです。

紛争や戦争、災害や病気。

その時になって初めて気付く事が沢山あります。

後悔する事も、無念に思う事も出てくる事でしょう。

気が付いた時には遅いかもしれないのです。

その為に大切なのは、「想像力」を使い、大切な約束を、引き延ばしにしない事です。

それは、自分自身に対しても同じ事です。

そして、上記の様な困難な状況に陥った人達に対する想いを馳せる事です。

決して他人事として傍観してはいけないのです。

「もし?」は、傍観者からは出てこない言葉だからです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタイン

「The value of a man should be seen in what he gives and not in what he is able to receive. 」

『人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。』

 

あなたにとって大切な約束。

それは時を超え、誰かの胸の中でいつまでも残る宝物です。

 

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